彼女は何も言わなかった。
 僕も何も言わなかった。



       ep. 日記帳/Flower garden



 私は酷い人間です。
 私は酷い化物です。
 私は私の母親を殺しました。
 私はこの手で、自分の母親を殺しました。
 私は彼に傷を負わせてしまいました。
 傷は残らなかったけれど、ずっと続く痛みを与えてしまいました。
 私はお母さんを守れませんでした。
 私は彼を守れませんでした。
 けれど私は、傷一つ負わないで、何の痛みも知らないで、今もこうして生きています。
 生きていることを享受しています。
 私は酷い罪人です。
 なのに、私一人が、こうしてのうのうと生きています。
 私一人が無傷です。
 私は何をすればいいんでしょうか。
 私はどうすればいいんでしょうか。
 この罪を償うことなど、できないことは分かっています。
 例え誰が私を許してくれても、私はずっと自分が赦せないでしょうから。
 母を許せない私を、私は赦せませんから。
 彼を許せない私を、私は赦せませんから。
 私がどう生きればいいのか、誰も教えてくれません。
 だから、私はそれを見つけていきたい。
 けれど、そのために、私が彼のそばにいたいというのは、また罪なのでしょうか。
 私には分かりません。
 私には分かりません。


               §
 

「日記というより懺悔だね、これは」
 誰もいない部屋で彼は呟いた。
 開いているページの文字はほとんど書き殴りで、所々が奇妙に歪んでいたり、何故か滲んでいたりしたが、そんなことお構いなしに彼は読んでいた。
 やがてぱたん、と日記帳を閉じ、引き出しの元あった場所に置いた。
 ふと机の上に目が行く。隅にある、直方体のガラスケースの置物。その中の空間に、何の支えもなく縦に浮かんでいる翡翠色の羽根を見つけた。
「こんな小細工をするのは、芦屋かな」
 千年前からの友人の仏頂面を思い浮かべて、彼は呟いた。あれで中々、彼はまだ人間臭い。普通なら、“姑獲鳥”の死と同時に腐ってしまう羽根を、わざわざこうして保存している。こんな気配りをするのは、彼には芦屋以外思い当たらなかった。
 彼がどんな気持ちでこれを作ったのか──それを考えてくすくすと笑いながら、彼の姿は掻き消えた。

 風が吹き抜ける丘だった。
 そこを、彼は歩いていた。白い着物を風にたなびかせ、歌を口ずさんでいる。元々それほど得意でないのか、音は微妙に調子外れだった。しかし、彼は構わず歌っている。

「種を撒いて、種を撒いて、一度だけ水をかけよう。
 後の仕事は雨と風がする。僕はただ見守っていよう。
 芽が出て、育ち始めたら、祝福の踊りを皆で踊ろう。
 愉しく手を取り合って、歌って、踊ろう。
 お日様と、お月様にも、感謝を忘れないで。
 やがて大きな樹になったら、僕はその樹に登ろう。
 枝を伝って、葉を掻き分けて、熟れた果実を収穫しよう。
 酸いも甘いも同じ果実で、僕にとっては嬉しい実り。
 一つも残さず、食べ尽くそう。
 手に種だけが残ったら、もう一度それを土に撒こう。
 また一度だけ水をかけて、後は天気に任せよう。
 そしてもう一度実るまで、僕は踊って待っていよう──」

 歌の終わりで、彼は足を止めた。
 ついこの間知ったばかりの、少女の名を呼ぶ。
 目の前に佇んでいた少女は彼を振り返った。
 少女は、肩から先が鶴の羽に変じていた。脚は膝から下が奇妙に細く黒ずみ、尖った指は三本しかない。
 彼女は驚くでもなく、その人物に話し掛けた。彼は二、三度頷き、今度は彼が彼女に何かを言った。彼女もまたそれに強く頷き、歩き始める彼の後ろについていった。
 その瞳に宿る意志の光は強く、しかしひどく暗い。
 彼はその色に密かに満足しながら、彼女を従え歩いていった。
 そしてまた、同じ歌を歌い始めた。


               §


 人が入って来そうもない山奥に、ぽつんとその空間はあった。
 木々が生い茂る中で、その円形の領域だけ一本も木がなく、日の光が燦々と降り注いでいた。
 その中心に、人の背丈の半分ほどの石が一つ──
 表面には、ただ、『蓮花』とだけ彫られていた。
 その石の周囲だけ、土を掘り返した跡があり、茶色い土が露出して、そこからまたたくましく雑草が生えようとしていた。
 そしてそこを除いた石の周囲は、円形の空間一杯に──季節を少し外れた蓮華草の花が、一面に咲いていた。
 ここ最近降り続いた雨のせいで、土は湿っている。



 花は、まるで涙の一雫のような、露に濡れていた。









                    fin / to be conitnued.


あとがき

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