なにをしましょうか、と彼女が言った。
 かくれんぼ、と僕は提案した。



       A. 再会/Under the moon



「で、晶」
 そう言って身を乗り出してきたのは、中学時代からの友人、新庄伸也だった。髪はスポーツ刈りで肌は浅黒く、いかにもスポーツマンといった印象。それとは裏腹に、彼は晶と同じ美術部である。人は見かけで判断するべきではないとはいえ、伸也は運動がそれほど得意ではなかった。
 ちなみに頭もあまり良くなかったっけ、と何気なく晶は思い出した。
「おいコラ、今無茶苦茶失礼なこと考えなかったか」
 ついでに、妙に勘がいいことも。
「それで何の用? 塗ってる途中なんだけど」
 キャンバスにはしらせる筆を止め、伸也を見る。
「いやな、暇だったから与太話でもして時間潰そうかと」
「僕は暇じゃないってば」
 再び筆を動かす。晶が描いているのは何の変哲もない水彩の風景画だった。
「まぁ聞くとはなしに聞くがいい。単なる暇潰しだからな」
「あ、そ」
 思いっきり素っ気なく答える。筆は止めない。
「で、どんな梅干が美味いかというとだな──」
 毎度のことながら伸也の話はわけが分からない。晶は密かに思った。
 伸也の話の内容はそれこそ千差万別で、アメリカ航空宇宙局から主婦の知恵まで、ありとあらゆる分野を網羅している。そこまで色々知ってるんだから頭いいじゃないか、と晶は前に訊いたことがあるのだが、本人曰く『雑学と勉学は違う』。つまり生活や趣味の役には立っても勉学の役には立たない、ということらしい。
 晶は彼のとりとめもない話を、聞くとはなしに聞いて──
「──で、オレの町で犬猫連続殺人事件が起きてるだろ? アレ、何だか変なことになってるみたいだぞ」
「────ちょっと待って」
「ん? ……あぁ、犬猫は人間じゃねぇから殺人とは言えねぇよな」
「そうじゃなくて」
 頭を切り替えるように左右に振る。
「変なことって、何」
「ん? あ、あぁ……」
 伸也が言い淀み、周囲を見渡す。誰かに聞かれることを怖れているように。
 晶もそれにつられて、部屋の中を見渡した。そして、美術質の墨で果物のデッサンをしている桐花を見つけた。桐花は晶のことを避けているはずなのに、何故か桐花は彼と同じ部活を選んでいた。その理由は未だ知れない。
 近からず遠からず。多分これが、晶と桐花を表すのにもっともふさわしい言葉。
「ここだけの話だがな」
 桐花に気取られているうちに、伸也は話し始めた。
「オレの親父、警官やってっだろ。で、昨日うちで酒飲みながらぐちぐち言ってたんだよ。そこにオレが不用意に近づいたもんだから、長話聞かされちゃってさ」
 最初は、とりとめもないただの愚痴だったらしい。上司が嫌味だ、部下が生意気だ、給料が安い、これだから中間管理職は、などなどそんなありきたりな話。それが途中で、伸也の父が担当している事件である、例の小動物連続殺害事件の話になってきたらしい。
「で、だ。親父がいきなり叫んだんだよ。『ライオンでも出てきたってのかー!』って」
「……何それ」
「知るか。まぁそれはともかく、親父の愚痴聞いてると、どうやら犬猫はただ殺されたってわけじゃないらしくてな──」
 警察が死体を調べたところ、明らかにおかしな点が出てきたという。
 犬猫はただ殺されたのではなく、身体の一部が失われていたということ。それも主に、脚や腹の肉など、美味しそうな部分ばかり。まるでその部分だけを食べてしまったかのように。
 ──いや、実際にそうなのだ。多分犯人は、最初から食べる目的で殺していた。
 となると、犯人はおそらく──あまり考えたくはないが──人間ということになる。というのも、狼やライオンが他の動物を捕食する場合、大抵柔らかい内臓から食べ始め、四肢と頭は後で喰うという。しかし伸也の話を聞く限りでは、内臓にはほとんど傷がないらしい。
「──いいよなぁ、お前んとこは犬とか猫とか死んでなくて。オレの街じゃ毎日のように死んでっからみんな戦々恐々としちゃってさぁ。特に愛犬家とかが」
 いつの間にか伸也の話は終わっていた。思索に耽っている間に、伸也は話したいことを全部話してしまったらしい。
 と、そんな折、
「ふーん、そーなんだー」
 突然響いた声に、晶は思わず身を仰け反らせた。
 いつの間にか二人の間には、小柄な少女が顔を突っ込んでいた。
「……脅かすなよ、さくな咲菜」
 伸也が眉をひそめた。
「別にいーじゃないー。お話終わってたんでしょー」
 むぅ、と頬を膨らませて、咲菜は言う。その際、二つ垂らした三つ編みが目に入った。
 咲菜は僕や伸也と同じく二年生なのだが、その外見はどう見ても中学生、ともすれば小学生に見られるかもしれないほど幼かった。妙に間延びした喋り方が特徴的で、伸也と同じく、中学時代からの晶の友人だった。
「それに別に伸ちゃんに用があるんじゃないんだからー」
 咲菜は晶の方に視線を向けた。
「僕?」
「そー。ちょっとねー、桐花ちゃんのことで話があるのー」
 ちらりと視線を桐花に向ける。さっきとやっていることは変わらない。
「それで、桐花がどうかした?」
「んー。何だか最近、桐花ちゃん変だと思って」
「そうか? オレにゃ分かんねぇ」
「伸ちゃんの鈍感」
「何だと、この」
 伸也は咲菜の頭を思い切り鷲掴みにした。相当痛いらしく、咲菜は痛そうな顔で身をよじる。相変わらず仲の良いことで、と晶は内心嘆息した。
「まぁまぁ、伸也もそのくらいにしときなよ」
 話が続かないので、伸也をたしなめる。ようやく、伸也は咲菜を解放した。
「……まぁ確かに変だけどね」
 呟く。とはいえ、晶が確認する限り、桐花が変なのは昨日からなのだが。
「あー、やっぱ分かってるんだー。流石お兄ちゃん」
 頭を押さえてうずくまっていた咲菜が、復活するなり晶を茶化した。晶はその言い草に苦笑を見せる。
「まー、具体的にどこが変だとは分からないけどねー。何て言うか、雰囲気、かなー」
 歯切れ悪く言いながら、咲菜は首を傾げる。
 もう一度、桐花を見た。相変わらず、果物ばかりを描いている。その横顔からは、何も読み取れない。
 それで話は終わった。晶は再び緑の絵の具を筆にとり、ぺたぺたとキャンバスに塗り始めた。


         §


「……手酷くやられたようね」
 少なからず笑みを交えた声音で、笹垣は言った。芦屋はそれを憮然とした表情で受け止める。
 芦屋の左腕は、ようやく復元を終えたところだった。今は指先を少し動かせる程度で、元通りの動きを取り戻すには、まだ時間が要った。
「俺に、殺さずに捕まえろ、というのはいささか無理があるぞ」
 ふん、と鼻を鳴らして、芦屋。笹垣は何が面白いのか、くすくすと笑った。
「まぁいいじゃないの。相手の正体や強さが分かったんだし、こちらとしても動きやすくなるわ」
「言っておくが、あれは──」
 ええ、と頷く。
「分かってるわ。聞く限りじゃ、対象はあなた以外の手には負えないようね。任務は一応継続の方向でお願い」
「──殺しては駄目か」
「だーめ」
 子供をたしなめる母親の口調で、笹垣は言った。
「あくまであなたの任務は連れ帰ること。殺すことじゃないの。──不可抗力だった場合は仕方ないけど、その時は死体だけでも回収すること」
「……面倒だな」
 芦屋は軽く溜息をついた。
「そう言わないの。彼らのことを知るためには、少しでも多くの知識や物が必要──それはあなたが、一番良く分かってるでしょう?」
 微笑し、笹垣は一枚の紙を芦屋に手渡した。
「全くもってその通りだ」
 渋い顔で、芦屋は渡された紙に目を通す。
「……“倉敷くらしき”限界領域四段階までの解放承認、“干将かんしょう莫耶ばくや”の使用許可。それと──」
 それきり無言で芦屋は視線を紙の下まではしらせる。末尾には、堅苦しい文体で書かれた数行の文と、『笹垣直美』の直筆サイン。これは即ち、所長である笹垣の了承を得ていることを示す。
「……“歯狂はぐるい”まで使う必要はないと思うがな」
「念の為、よ。どんなアクシデントがあるとも限らないしね」
 紙をスーツのポケットに無造作に突っ込み、
「まぁ、使っていいなら使わせてもらおう」
 くるりと背を向け、部屋を出て行こうとする。
「待って」
 その背を、笹垣が呼び止めた。振り返れば、彼女は眉根を寄せていた。
「……いえ、何でもないわ」
 そうか、と芦屋は大して疑問も持たなかったかのように頷き、部屋を出た。
 息を吐き、頭を押さえる。
 笹垣の中には、まだあの『予感』のことが渦巻いていた。
『予感』が示す未来は、そう遠いものではない。また──これはまだ誰にも教えていないのだが──彼女の感じる『予感』には、少なからず方向性があるのだ。誰がどんな状況に直面するか、というのが、おぼろげにだが見える。それが笹垣の『予感』だった。
 既にそれは『未来視』の領域に入っていると言っても良かったが、笹垣はそれを認めない。未来が見えてしまうことは、とても恐ろしいことだから。
 だから、彼女はそれを否定していた。
 とはいえ──『予感』が告げることにほぼ間違いはない。そしてその『予感』の矛先は、芦屋に向いていたのだ。
「こんなちから、いらないのに──」
 識るだけのちからなんて、いらないのに。
 俯いて、独白する。
 机の上の、飲みかけのコーヒーだけが、その言葉を聞きとめていた。


         §


 ぺたり、と音にならない音が、暗い廊下にこだました。
 本来それは、響かぬほどに小さな音だ。だが今は、その響かぬ音が響くほどに、静寂だけがその場を支配している。
 午前二時。丑三つ時と言われるその刻は、かつて夕暮れ時──逢魔ヶ刻と同じくらい危険視されていた時間であった。今でこそその限りではないが、妖魔の存在が真剣に信じられてきた時代においては、人はその時間帯は決して出歩かなかったという。
 ──もっとも、信じる信じないに関わらず、確実にそれらは存在するが。
 そんな時間帯に、彼女は歩いていた。
 廊下が軋む音もなく、ただ素足と床が密着し、離れていく音だけを響かせて。
 ぺたり、と足音が止まった。
 距離にして散歩ほどしか離れていない、彼女の『兄』の部屋の前。
 そしてすぐに、足音は再び歩き出す。

 僕はそのまま、桐花の気配を黙って見送った。

 深夜の町は別世界だ。
 繁華街であるならともかく、建物が軒並み古く田畑の多いこの町では、日付が変わればほとんど人の気配はしなくなる。コンビニなどにはまだたむろする人間もいるが少数で、それも今ほどの時間帯になればほぼいなくなってしまう。
 それを示すように、桐花は家を出てから一人の人間にも会っていない。
 住宅街を抜け、昔の情緒を残す商店街を抜ける。街灯以外に灯かりはない。今夜も空は曇っていた。
 気配はまだ感じられない。この辺りにはいないのか、それとも向こうが消しているのか。
(しらみつぶしに探すしかありませんか)
 溜息をつき、桐花は電柱の上に跳び乗った。
 辺りを見回す。夜目には自信があるが、それでも姿は見えない。
 当然ですね、と独りごちる。向こうも、自分の存在を示唆するためにああやって犬猫の死体を放置していたのだろう。もっとも、昼間の美術室での晶と伸也の話を聞く限り、単に食事した跡なのかもしれないが。
 だが、かといって、そう易々と姿を見せてくれるような相手でもない。彼女の警戒心の強さは、桐花が一番良く知っていた。
 とん、と電柱を蹴る。そして次の電柱へ、更にその次へ。
 そうして彼女は、電柱を渡りながら、隣町まで向かっていった。
 そこに彼女がいると確信していた。何せわざわざああして誘ってくれていたのだ。今更ねぐらを変えるような真似はしないだろう。
 進む方向は勘だった。何となく、その方向に彼女がいると信じていた。
 だがそれはきっと間違いではない、と桐花は思う。自分と彼女は結局同じモノであるし、それに──
 いや、と彼女は首を振った。それはもう、関係のないことだ。
 いつの間にか足が止まっていた。
 ふっ、と肺の中の空気を入れ替えるように呼気を発し、再び桐花は跳び立った。

 ふむ、と彼女は満足げに嘆息した。
「桐花……あれで中々、衰えておらんようだな」
 てっきり完全にヒトの身に成り下がっていたと思っていたが、そうでもないようだった。予想以上に、桐花の種族の血は濃い。
(或いはそれも、桐花が桐花である由縁か)
 立ち上がる。彼女は今、潰れたデパートの屋上に佇んでいた。
 裸足のままコンクリートの上を歩く。ぺたぺたなどという音はしない。代わりに、カツカツと妙に鋭く、硬質な足音だけが聞こえる。
 フェンスは撤去されている。彼女は、その縁ぎりぎりのところに立った。
 ばたばたと強い風が彼女を嬲る。朱い髪が弄ばれる。翡翠色の着物の裾がはためく。同じ色一色に染め上げられた袖も同様に。
 ──そこに、人間の腕はなかった。
 翡翠色の袖から覗くそれは、それと同じ色をした、鳥の翼。
 はためく裾の下にも、人間の足はなかった。膝から下は、長さだけが人間のものを残し、鳥の足のように細く、先端は三つに分かれ鋭い爪が生えていた。
 それが、彼女の属する、ヒトに在らざる“種”の証明。
 目を細める。針のように細められた瞼の下で、水色の瞳が淡い燐光を発する。
 ──見つけた。
 口の中で呟く。集束された視界の中に、長い黒髪を振り乱して電柱を跳び移る少女の姿がある。──間違いなく、こちらに向かって来ていた。

 小さく息を吐き──両の翼を大きく振った。
 刃の風が生まれる。空間を切り裂く勢いで、幾条もの刃が少女に殺到した。
 それに気づき、桐花は一瞬驚愕の表情を浮かべるも、即座に迎え撃つ。
 桐花の腕がしなり、彼女と同じ刃が巻き起こった。
 桐花から五〇メートルほど離れた中空で、刃全てが激突した。発生させた刃の数は双方同じ。それら一つ一つがぶつかり合い、そして相殺した。

 大気が歪曲していた。空気の調和を崩されていた空間が、しかし一瞬後には元に戻る。
 その向こうで、桐花は彼女を見つめていた。鋭い、瞳孔が縦に割れた青燐せいりんの瞳で。
 酒屋の看板の上に佇んだまま、こちらを睨んで動かぬ桐花を同じように見返しつつ、彼女は空中に浮かび上がった。
 昨日の傷はとっくに癒えている。が、今戦うことは得策ではない。先程から別の気配が近づいてきていた。間違いなく、昨日のあの男のものだった。
 ふと、頬に生暖かい感触を感じて手を触れる。ぬるりと肌に触れたそれは、赤い液体だった。どうやら全てが相殺しあったわけではないらしい。頬に一筋、切り傷ができていた。
 面白い、と呟く。目を凝らした先では、桐花が腕を押さえ、しかしやはりこちらを見据えている。向こうも、流れた刃に傷を負ったようだ。
 これ以上ここに留まるのは賢明ではない。すぐにあの男も来るだろう。
 とりあえず今はどこかに身を隠していよう。そう考え、彼女は天高く飛翔した。

 そうして、真夜中の再会は終わりを告げた。
 後にはただ、殺し合いが残るばかりである。


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