きりか、と彼女は名乗った。
 しょう、と僕も名乗った。



       C. 人外の夜/I don't separate from my dear.



 ──明るい光に意識が冴えていく。窓から差し込む光が、徐々に目を覚まさせていく。
「……ん」
 夢から醒める。ゆっくりと晶は起き上がり、枕元の眼鏡をかけた。
「……あふ」
 あくびを噛み殺しつつ、時計を見やる。午前十時。一瞬焦るが、今日が日曜だということを思い出し、安堵する。しかしながら起きる時間が少々遅い。まぁ、疲れていたから仕方ないとえば仕方ないのだが。
 とりあえず着替えて、部屋を出る。階段を降りて洗面所に行き、顔を洗った。
 鏡の中の自分は、まだひどく眠そうな顔をしている。
(……もう少し寝ちゃおうかな)
 そんなことを考えながら洗面所を出ると、ばったり桐花に出くわした。
「おはようございます、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう」
 挨拶を交わす。
 桐花は、もう元に戻っているようだった。昨夜垣間見た、気弱な表情は微塵もない。
 桐花も今起きたばかりのようだった。服は昨日のままだが、シャワーを浴びるつもりなのだろう。手には、着替えが抱えられている。
「朝ご飯はどうします? もう遅いですけど」
「いらない。どうせもうすぐにお昼だしね」
 ですね、と桐花は頷き、晶と入れ違いに洗面所に入る。背中で、分厚いカーテンが閉じられた。
「──ああ、そうでした」
 声がした。振り向くと、カーテンから顔だけを覗かせる桐花がいた。
「昨日私を部屋に運んだの、お兄ちゃんですか」
「うん。……ごめん、勝手に部屋入っちゃった」
「いえ、気にしないでください。あそこで寝た私が悪いんですし。それより、お手数かけてすいませんでした。それじゃ」
 頭を下げて、桐花はカーテンを閉じた。
「…………うーん」
 小さく、カーテンの向こうの桐花に聞こえない程度に、晶は唸った。
「ほんと、すっかり元通りだ」
 苦笑を浮かべながら、晶はリビングに引っ込んだ。

 数分後。
 浴室のタイルに座り込んで、真っ赤に染まった顔を手で押さえている桐花の姿があったことを、晶は知る由もない。

 午前中を適当に過ごし、午後二時頃になって、晶は家を出た。
 昼食後すぐ、桐花は家を出た。どこに行くのか駄目もとで訊いてみると、意外とあっさり桐花は答えてくれた。
『蓮花を探しに行きます』
 止められる雰囲気ではなかった。鬼気迫る、とでも言えばいいのだろうか。強く押さえ込まれた感情を、晶は感じた。気をつけて、と言うと、桐花はお辞儀一つ残して玄関のドアを閉じた。
 それから一時間以上を呆と過ごし、晶は寝転がっていたソファから起き上がった。
 自分も蓮花を探そう。そう思った。見つかるかどうかと問われれば、おそらく見つけることはできないだろう。無駄足になるに違いない。だが、何もしないでいるよりはましだった。無力さを実感するよりは。

 竹見町。人口一万ちょっとの小さな町。自然が多く、反面建造物は少ない。駅は町の中心に一つだけ。コンビニに至っては三軒しかないという中途半端な田舎っぷりである。
 その一つしかない駅のホームに、晶はいた。自分以外に、人は四人。うち二人は売店員と駅員だ。
 一駅分の切符を買い、ベンチに座って電車を待つ。
 萩間町に、晶は向かうつもりだった。桐花も多分、そこで蓮花を探しているのだろう。
 あの時、ニュースを見ていた桐花が何故あんなに危うく見えたのかも、今なら納得できる。夜中出歩いていた訳も、蓮花を探すためだったのだ。
 そして今も、桐花は蓮花を探している。
 けたたましい、電車が駅に入ることを知らせる電子音。がたがたとレールを軋ませながら、黄色い二両編成の電車がホームに滑り込んできた。晶はそれに乗り込み、ドアに程近い場所に座った。
 五分と待たずして、電車はがたがたと巨体を揺らしながら発車した。規則的な振動が徐々に早まるのと同時に、窓の外の景色も段々と目に留まる時間が少なくなる。
 これは動く景色だ。そう思った。留まることのない、流れ続ける景色。風景自体は動かないのだが、自分が動いているせいで、そう見える。本来動かないはずの太陽が、自分たちから見れば動いて見えるのも似たようなものだ。
 人生も似たようなものではないのか。自分では変わらないと思っていても、いつの間にかどこかが違う。変わっている。時間は常に流れ続けている。そして、変わってしまった何かを、いつの間にか容認している。始めは異質なものと感じていたとしても。
 そう、異質なものでも。
 慣れというものは恐ろしい。まさに自分がそうだ。八年前も──そして今も。
 吐息。かぶりを振って窓の外の風景を眺めることに集中する。流れる景色を目で追わず、流れそのものを眺める。
 視界の先に広がる空と背の低い山脈。山を埋め尽くす緑。所々に見える畑。緑を貫いて走る農道。アスファルトの山道。そこを登る白くずんぐりとしたトラック。荷台にはオレンジ色のコンテナが数個と、様々な農具が積まれている。
 ──見ようと思えば、座席に座る人間の顔までもくっきりと見える。
 遠くから、先程も聞いた電子音が聞こえてきた。
 窓の外を眺め続ける晶を乗せて、電車は駅に辿り着く。


               §


 商店街の雑踏の中を、少女は歩いている。
 昼間から探すのは無意味なことだと、桐花は思った。蓮花ほどの者が、人間にすぐ見つかるような場所に隠れるはずがないのだから。感覚で捉えようとしても、向こうが気配を消している限り捉えることはできない。今までもそうだった。このところ毎日、夜中家を出て蓮花を探していると、決まって蓮花は遠くから気配と風をぶつけてきた。だがそれは向こうが自分の存在を誇示しているだけで、決して桐花が自力で見つけたわけではないのだ。つまり今の桐花の行動は、はっきり言ってまったくの無意味なのである。
 それでも尚桐花は蓮花を探し続けている。動いてなければ余計なことを考えてしまうのは、彼女も同じだった。
 しかしそれでもついつい考えてしまうのは、ある意味仕方のないことだった。意識すまいと思う時点で既に意識しているのだ。記憶を簡単に忘れたり封じたりできるほど、ヒト──否、知的生命体達の脳は易しくできていない。
 周囲に注意を払うことでできるだけ意識を紛らわそうとする。
 とはいえ、注目に値するものは何もない。やはり無駄足は無駄足なのである。
 嘆息し、桐花はその場を離れることにした。ここでは本当に意味がない。
 半ば急ぎ足で、桐花はそこを去った。


               §

 
 萩間町は竹見町に比べてやや大きい。また住宅街が多く、それに伴い商店街も充実し、多くのビルも立ち並んでいる。故に萩間町は、竹見町の住人も頻繁に買い物などに訪れるようになっている。
 町と呼べるほど小さくないが、市と呼べるほど大きくもない、日本中どこにでもありそうなそんな街。それが萩間町である。
「──あれ?」
 その萩間町の南西の大通りで、晶は見覚えのある顔を見つけた。
 一〇メートルほど先から歩いてくるのは、伸也と咲菜の二人だった。どうやら向こうも気づいたらしく、伸也がぱたぱたと手を振ってくる。
「よっ、奇遇だな」
「うん。ところで二人揃って何してるのさ。デート?」
「違う違う」苦笑気味に、伸也。「ちょっとこいつの買い物に付き合わされてるだけさ。親父さんがもうすぐ誕生日らしいから、それで。だよな」
「う、うん……」
 曖昧に咲菜は頷いた。その顔に浮かぶのは、戸惑いと──
 成程、と晶は理解し、言葉を紡いだ。
「そっか。なら午後一杯使ってでもきちんと選ばないとね。折角の誕生日プレゼントなんだからさ」
「おう、分かってる分かってる」
 笑って、伸也は頷いた。
「そう言えば今日、駅前の喫茶店でケーキ半額なんだってさ。プレゼント選び終わったら行ってくれば?」
「おっ、それマジ?」
 頷く。思った通り、伸也は食いついてきた。彼は、甘い物に目がない。
「伸ちゃん、帰りにでも寄ろうか」
「ああ、そうしようぜ。てか是非。絶対」
 咲菜の提案に、伸也はあっさり乗った。──喜びのあまり、ほんのり上気した咲菜の顔にも気づかない。
「それじゃ、僕はそろそろ行くから」
 おぅ、と手を上げ、伸也は歩き始めた。その背を咲菜の小さな身体が追いかける。
 ふと、その途中で咲菜が立ち止まり、振り返って晶にぺこりと頭を下げた。唇が『ありがとう』の形に動く。晶はそれに手を振り、頑張ってね、と小さく言った。
 伸也を追っていく咲菜を眺めながら、苦労するだろうな、と微笑ましい気持ちになってくる。
 伸也は妙に勘がいい。しかしそれは、自分に対する人の想い以外で、という条件付きである。つまるところ、鈍感なのだ。あれではまだしばらくは、咲菜の想いにも気づくまい。
 やれやれ、と溜息をつき、晶もまた歩き始める。
 二人を、少しだけ、羨ましく思いながら。


               §


 ざ、と風が薙ぎ、木々の枝葉を揺らす。そして彼女の髪も、また。
 風の中に己が身を晒しながら、桐花はその光景を眺めていた。
 抉られた社の柱。砕かれた狛犬と石畳。でこぼこな地面。ただでさえ朽ちかけである神社は、ここにきて更に廃墟の体を見せていた。
 蓮花の気配はない。元より彼女を探しにここにきたわけでもない。いや、それもここにきた理由の一つではあったが──探したいもの、見つけたいものは、もっと別のものだ。
 社の横を通り抜け、その裏に回る。
 大きな木が一本。まるで御神木のように悠然と佇んでいる。いや、実際にそうだったのだろう。記憶の中で、八年前のこの木は、幹に注連縄をつけていた。
「懐かしいですね……」
 思わず、呟く。八年前の自分は、この木の枝から下界を見下ろしていた。
 そしてこの木の下で、晶に翼を奪われた。
 幹に背を預け、空を見上げる。珍しく雲一つなく晴れている。最近曇天続きであったため、こんな天気だとやけに気分がすっきりしてくる。心の中の靄まで一緒に払ってくれそうなほどに。
 だが実際には、そんなことはありえない。気分が晴れることで解決する問題なら、どんなに気が楽だったろう。
 ふぅ、と吐息し、木から離れ伸びをする。背骨が引き伸ばされていく感覚が心地良い。
 現在時刻は午後三時過ぎ。五時まで探したら帰ろう、と決める。食事の用意もしなくてはならない。それらが全部終わったら、本腰を入れて蓮花を探しに行こう。夜の方がこちらとしても動きやすいし、何より蓮花が姿を見せるのは、いつも夜だ。
 歩き出す。最後に木を見上げてみようとして──それを見つけた。
 自分が今まで寄りかかっていた木の、頂上近くの枝。普通の人間なら絶対に気づかない場所に、その白い紙は結わえ付けられていた。
 とんとんと枝から枝へと跳び上がり、それを解く。細長く折られ、御神籤のように結わえられていたそれは手紙である。開こうとして──やめた。内容は読まずとも分かっている。
 そして、向き直り、彼女は見下ろした。八年前と同じように。
 とても大好きなこの景色を。


               §


 伸也達と別れて商店街方面に歩いていくと、あまり会いたくない──というか、この場所、この状況下では会いたくない人物に出会ってしまった。
「や。奇遇ですな。おでかけですか?」
 そうにこやかに言い放ったのは、高峰武夫その人である。晶は狼狽を隠そうともせず、大きく吐息する。
 正直、彼はこの街の風景の中にあって、凄まじい違和感を発していた。
 今はもう六月下旬。本格的な夏が近づき、そろそろ暑くなってくる頃である。空には雲一つなく、燦々と太陽が輝いている。
 そんな中、全身黒スーツ姿で汗一つかかずにこにこと微笑んでいる老人が一人。
 自然と視線は高峰と、それに声をかけられた晶に集中してくる。痛い。
「……とりあえず、移動しましょう」
 辟易した声。高峰の袖を掴み、半ば強引に晶はその場を離れていった。
 とはいえ行く当てがあるわけでもなかった。しばらく歩き続けて、高峰の提案で、晶は路地裏の喫茶店に入ることになった。店の名前は『Farewell』。確か「さよなら」という意味だったろうか。
 からんからん、とベルが鳴り、二人は店に入った。途端に全身に冷気が吹き付けてくる。外との急激な気温の変化に、晶は小さく身震いした。カウンターに立っている、頭の禿げ上がった強面のマスターは、コップを拭きながら二人を一瞥する。高峰とマスターは互いに軽い会釈を交わし、店の奥に進んだ。
 店の中に客は少ない。──しかもその全てが、黒のスーツ姿だったりする。
 そのうち一人が、高峰と晶二人の存在を認め、ひどく驚いたような表情を見せる。慌てて高峰に礼をし、仲間に何事かを口走る。他の黒服達も、最初の一人同様がたがたと椅子を鳴らしながら高峰に頭を下げる。高峰はそれに笑顔で軽く手を振りながら、一番奥の席に晶を促した。──機関の部下らしい。
「……偉いんですね、高峰さん」
 壁を背にして椅子に座りながら、素直な感想を漏らす。晶と向かい合うように座り、高峰は謙遜するように手を振る。
「まぁ務めてる期間が長いものですからな。かれこれ五十年以上は機関に勤続しとります。定年もないですし。今じゃ、一応実行部隊隊長って階級ですわ」
 有名無実ですがな、と高峰は笑う。
 ちょうどそこにウェイトレスが来て、ご注文はどうなさいますか、と訊いた。
 その姿を見て、晶は内心ぎょっとする。
 ウェイトレスには右眼がなかった。それを眼帯で隠そうともせず、義眼もなく、ただ空虚な闇を覗かせている。よく見れば、右腕と、右足さえもが義肢だった。どちらも精巧に作られているが、間接部分まではごまかせない。それは、人形の腕と脚だ。
「晶君は、コーヒーは大丈夫ですかな」
「あ……はい」
「じゃあアイスコーヒーを二つ。ああ、それとあたしにはミルフィーユを一つお願いしますわ」
「かしこまりました」
 人形の腕がエプロンのポケットからボールペンを取り出し、さらさらと注文の品を書いていく。その動きはとても自然で、作り物になど見えはしない。
 注文の確認を取って、ウェイトレスは奥に引っ込む。脚の動きも、普通の人間とまったく変わらない。
「さて、本題に入りましょうか」
 ちらちらと気づかれない程度にウェイトレスを眺めていた晶は、高峰の声で我に返った。
「やっぱり、さっき会ったのは偶然じゃなかったんですね」
「当然でしょう」
 事もなげに言い放つ。
「あたしらは、一応晶君達を見張っとるんですからな。……まぁ桐花さんの方は、うちの部下振り切られちゃってるみたいですが」
 やれやれ、と肩を竦める。
「さて──」
 高峰は不意に振り返る。何食わぬ顔つきで二人の会話に耳をそばだてていた黒服達が、いっせいにびくりと身を竦ませる。
「──少し、離れていてくれませんかな?」
 言うが早いか、青い顔で黒服達はその場を離れ、レジ近くのテーブルについて、それでもちらちらとこちらを伺ってくる。晶は改めて、高峰の立場に驚く。
「いやいや、お恥ずかしいところをお見せしましたな」
 高峰は頭を掻いた。
「この店は機関の息がかかっている店でしてな。主に休憩や、道端で話すには少々差し支えのある話の時に利用されとります。ここのマスターも一応職員でしてな、昔はあたしの部下でした。前に娘さん──さっきのウェイトレスです──が、任務中の事故でああなってしまってからは、ここの店主と情報関連の仕事を兼業しとりますが」
 部下を肩越しに指差し、
「彼らも休憩に来とるんでしょうが、あたしらがいたら満足に休めんでしょう。なるだけ、手短に済ませます」
 有名無実などと言っておきながら、充分高峰は自分の影響力の高さを承知しているらしい。晶は頷き、促す。
「それで、話というのは?」
「まぁ大体予想はついていると思いますがね。桐花さんと──」
「僕のことについてですね」
 深く、高峰は首肯する。
「お気づきでしょうが、晶君はもう人間じゃなかとです。かといって怪異でもない。その中間に位置する、極めて特異な存在となってしまっとります」
「そりゃまぁ、何の訓練も修行もなしに、人の気配読めたり風の流れより速く動いたり──極めて異常な視力を持ってるような人間が、いるわけないですよね」
 晶は小さく自嘲の笑みを漏らす。
「原因は、分かりますか?」
「薄々と感じてはいます。──桐花ですね?」
「はい。“姑獲鳥”の繁殖原理についてはお話しましたな?」
 頷く。昨日聞いた話だ。曰く、“姑獲鳥”は人間の女児を攫い、それを自分の子とする。
「それと同じ現象が、晶君にも起きていると考えられますな。……先に、遺伝子の話をしときましょうか。ヒトと“姑獲鳥”とでは、遺伝子の相違が〇・八パーセントほどあります。たかが〇・八パーセント、ではないとですよ。ヒトとチンパンジーですら、相違は一ないし二パーセント程度しかありません。それだけの違いなのに、ヒトとチンパンジーはあれほど違う。──昨日柿崎先生に血を取られたでしょう。それを更に詳しく分析した結果──晶君は、遺伝子の〇・三パーセントが、既に“姑獲鳥”となっとります」
 やっぱりか、と晶は椅子に身を沈め、吐息した。
 ある程度自覚していたといえど、それでも面と向かってそう言われると、やはり相当重く感じてしまう。
 ちょうどそこに、先のウェイトレスが注文の品を持ってきた。目の前に置かれたアイスコーヒーを、晶は何も入れずに直接口をつけた。苦みが口内を満たし、頭まですっきりさせてくれるような錯覚を与える。そのまま一気に、コーヒーを飲み干した。
「……続けてください」
 氷ばかりが入っているグラスを置き、晶は言った。高峰はミルクを入れたコーヒーを半分まで飲んだところで、グラスを置いて話し出した。
「──実は、“姑獲鳥”が人間と共に過ごしたという話は、それほど少ないわけではありません。彼女達は怪異とはいえ、やはり元はヒトですから、ヒトの男性を愛することもあります。子供を作ることも可能です。──ですがそれでも、晶君のように、男性が“姑獲鳥”の影響を受け変質するという例は──一つもありません」
 再び、静寂。
 さく、と高峰のフォークが、ミルフィーユの端を切り取る。
「おそらくは、桐花さんが常識離れした力を持つ“姑獲鳥”であることと」ミルフィーユの切れ端を口に運び、素早く咀嚼して飲み込んだ。「──よっぽど、晶君との相性が良かったからでしょうな」
 再びミルフィーユを切り、口に運ぶ。
「相性……ですか」
 何とはなしに呟いた。それを高峰はあざとく聞きとめ、
「嬉しいですかな?」
 などと笑って言ってきた。
「いえ、別にそんなことはないですけど。……ところで、一つ訊きたいことがあるんですけど」
「はい。何ですかな?」
 にこやかに、高峰は応じる。
「桐花は、幼い頃蓮花さんに攫われて、“姑獲鳥”になったんですよね」
「ええ」
「なら、桐花の本当の両親は、今どこにいるんですか?」
 笑顔が目に見えて固まった。
「……お話しましょう」
 ぽつりと、呟くように高峰は話し始めた。
「桐花さんのご両親は、福島県のとある市に住んどります。……実はこれ、桐花さんの調査を進めていくうちに簡単に分かったことですがね。行方不明となった女児の届け出と、その身体的特徴や血液型などを重ね合わせていけば、我々の組織にとっては割と簡単な仕事でしたしな」
「じゃあ何故、教えなかったんですか?」
「お二人は既に別れています」
 ストローでグラスの中の氷を掻き混ぜながら、高峰は言う。
「よくある話ですな。我が子を失い、それが原因で瓦解する家庭。当然と言えば当然の成り行きです。そんな状態の、生みの親に会っても、あまり良いとは思えませんがね、あたしゃ」
 手を止め、高峰はまっすぐに晶を見つめて、言った。
「哀しみはいつか癒されます。忘却という機能が我々にはあります。嫌なことは忘れてしまうという、極めて楽天家的なことを無意識下で行い、我々は忌むべき記憶に封印を施す。それがどんなに深い哀しみだとしても、時がそれを浅くしていく。癒えない傷などないんですよ。傷なんですから」
 ミルフィーユを切り取る。もうその大きさは半分以下になっていた。
「それに、会っても意味はないでしょう。どちらにとっても過去のことです。親を失ったことも子を失ったことも。そこには喜びも哀しみもありません」
 ただ互いに他人としての視線があるばかりで。
「それなら、教えても意味がない。教えたところで迷いとなるようなら、最初から教えない方がいい。それだけですな」
 そこで一息に、高峰は残りのミルフィーユを丸ごと口に運んだ。晶はそれを見届けて立ち上がり、高峰の横をすり抜けようとする。話すことは、もうない。
「お待ち下さい」
 それを、高峰が呼び止めた。晶は振り向かない。互いに背を向けたままだ。
「これだけは聞かせて下さらんか。晶君、あなたは桐花さんをどう思っとるんですか?」
「──護りたい、大切な子です」
 それだけ、晶は呟いた。
「……僕からも一ついいですか?」
「何でしょう」
「神様はいるんですか?」
 ……二分か、三分か。経ってからようやく高峰は答える。
「昨日あたしは怪異には三種類あると言いましたな。生物として在る怪異。霊として在る怪異。『不死階級』と呼ばれる、生物でも霊でもなく、明らかに既存の生態系から逸脱した怪異。──それもう一つ、既存の生態系を超越したモノがあるとですよ」
 逸脱と超越は違う。逸脱は、枠組みから外れること。そして超越は、枠組みの更に上を行くこと。外れることに関しては、二つは同じなのだろう。ただし超越は、外れるだけではなく元の枠組みを持ちながらも、それを上回る力としてある。
「それは『不滅階級』と呼ばれとります。不老不死と不滅は違う。不老不死は、老いぬ、死なぬだけで、滅びぬわけではなかとです。ですが不滅は、文字通り滅びそのものを持たない。──これぞ、神と呼ばれる存在の性質ではないですかな? まぁ、神話の中では、死んでしまう神様もいるんですが……」
 背を向けたまま、高峰は変わらぬ口調で言う。晶はそれを静かに聞いていた。
「結論から言えば、神はいると言われています。ただし、誰も見たことないんですがね。時たま、神を見た、とか言う人がいますが、それも、本当に神に会ったのか、それが本物の神なのか、結局は分からんのですよ。──少なくとも、会ったその人にとってそれは『神』なのでしょうが」
(人間から、不滅階級者になった者もいるんですがね)
 それを高峰は告げなかった。できるだけ口止めされるように言われている。
「つまりいるかどうかは結局分からない、と」
 長い話を適当に要約して、晶は言った。
「身も蓋もない言い方ですが……ま、そうですな」
 苦笑気味に、高峰は頭を掻いた。
 ふぅ、と晶は一度吐息し、言う。
「じゃあ神様がいるとすれば、とても好きなんでしょうね。悪戯が」
 運命の悪戯とやらが。
 言い残して、無愛想な店主に自分のアイスコーヒー代だけを払い、ウェイトレスの声と他の黒服達の視線を背に、晶は店を出た。
 路地裏を出ると、強い陽射しが自分に降り注いできた。眩しさに、晶は目を細める。
 夏は、もうそこまで迫っていた。

 晶が去ったテーブルで、高峰はアイスコーヒーのおかわりをして、吐息と共に窓の外を見た。
 国道に面していないから人の通りはそれほど多くないが、それぞれがそれぞれの目的を持ってどこかに向かって歩いている。
「行く川の流れは絶えずして、ですな」
 独りごちる。数十年をこの街で過ごしてきた高峰は、無論この街の移り変わりも知っている。
「……ああ、しまった」
 ぺち、と自分の額を叩いて、つい今さっき言った自分の台詞を思い出した。
「方丈記でしたな、あれは」


               §


 そして、夕刻。
 午後六時、晶より一時間遅れて桐花が帰宅した。
 おかえり、という昌の言葉に返事も返さず、そのままふらふらと桐花は自分の部屋に篭もってしまった。声をかけることもできずに、晶はリビングに立ち尽くしていた。
 それから、一時間が経とうとしている。
「何か、あったのかな」
 呟きは、バラエティ番組の笑い声に掻き消される。
 と、リビングのドアが開き、桐花が顔を出す。
「……ご飯、作ります」
 晶が声をかける前にそう言い、桐花は台所に引っ込んだ。
 三十分ほどして、料理が出来上がる。
 食事の時も、桐花はずっと黙ったままだった。文字通り黙々と夕飯を食べ、ごちそうさまでした、と一言呟いて、自分の食器を流しに運んだ。
 夕食の後片付けを終えると桐花は風呂に入り、すぐに二階の自分の部屋へと引っ込んだ。
 そのまま、出てくる気配はない。

 一言も言葉を交わさぬまま、日付が変わった。
 課題を終え、大きく伸びをし、続いてあくび。スタンドの電気を消して、晶はベッドに潜り込んだ。
 昼間歩き回って、今日も疲れた。すぐに眠気がやってきて、晶はすぐに眠ってしまった。
 異変に気づいたのは、それからしばらく経ってのことだった。
 ──息苦しい。胸か、喉か。それは分からないが、ともかく呼吸することが極めて難しい。呼吸を試みるが、上手くいかない。肺はきちんと動いているようだが。ということは喉が苦しいのだと、晶はおぼろげに考えた。
 目を開く。昨日と同じく月が出ているせいか、部屋の中は薄明るく、とりあえず視界はきいた。
 そして、自分に覆い被さる影は──
「桐花、何してるのさ。そんなところで」
 そう言ったつもりだったが、上手く声が出ない。──首を締められているのだから、当然だ。
「……で、なに、してるの」
 首を圧迫する細い手を、力ずくで外そうとしながら言う。桐花は答えず、手も離れてくれなかった。息苦しい。締め落とす気なのだろうか。
 段々と、視界が霞んでくる。いや、歪んでいるのか。分からない。それを見極める思考力も低下してくる。血が脳まで回らない。顔が破裂しそうとだけは感じられ──ああ、本当に、まずい、これは──
 そこで唐突に、手が放された。たまっていた血が一気に交換される。霧が晴れ渡るように思考が冴え渡り、圧迫感がすっと消え去る。そこまで自覚して、肺が酸素を欲していることを思い出す。反射的に喉が大量の空気を吸い込もうとして、咳き込んだ。真上の桐花に唾が飛ばないように、辛うじて口に手を当てた。
 一通り落ち着いたところで、晶は桐花を見上げた。長い髪が、自分の顔を覆うように垂れ下がってきている。
「……次は襲う、って、言わなかったっけ」
 桐花の反応はない。ただまっすぐに、晶を見下ろしている。
「──返して下さい」
「何を?」
 それを彼女が言うことは、ある程度予想していたことだった。
「私の翼を」
「忘れたよ」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「──それなら、嫌でも思い出させます」
 呟きの中に、確かな鋭気が渦巻いた。
「喋らないなら、三十秒毎に足の指を一本ずつ切断します。逃げようとしても無駄です。この状態から、私を突き飛ばして逃げようとしても、すぐに追いついてしまいますから。──逃げ出すことなんて、できませんから」
 確かにそうだった。いかに自分がヒトでないとはいえ、純粋な“姑獲鳥”である桐花に、中間にいる晶が敵うわけがない。加えて、桐花には一分の隙もない。己の優位に、桐花は慢心していない。優位は、絶対的に確定していた。
 だが、それでも。
「できないよ、桐花には。──優しいから」
 そう、晶は言った。
「……冗談なんかじゃないんですよ?」
「でも、できない」
 晶は自分と桐花の顔の間に、右手を翳した。人差し指を立て、悪戯めいた微笑みを浮かべて。
「足と言わず、この指を切り落としてもいい。腕ごと切断してしまっても構わない。いっそ四肢を全部奪うのもありかもね。そこまでやれば、僕もさすがに泣き叫ぶかもしれないし、痛みで翼の在処を思い出すかもしれない。そこまで分かっていれば、切らない手はないだろう? ──さあ、切り落としてみてよ」
 笑みが挑戦的なものに変わる。一分の迷いもなく、自分の考えを信じきった者の笑み。──或いは、相手を信じ切った者の、か。
「──いいんですね」
「うん」
 ひどく無表情なやりとり。
 人差し指の付け根に、空気が集う。
 ぴしっ、と小さく、風が鳴った。
 紅い液体が晶の顔に滴り落ちる。頬を流れ、枕を穢した。流れは、止まらない。
「…………………………切れなかったね」
 桐花は答えない。
 晶の指は、まだ繋がっていた。
 とはいえ浅い傷ではない。溢れ出す血の合間から、白い骨が覗いている。
「……でも、さすがに痛いんだけど、これ」
 傷口を舐め、そこで初めて晶は顔をしかめた。ちらりと桐花の顔を一瞥し──その表情を読み取る前に、す、と桐花が、晶の上から退いた。足元で正座する桐花にならい、晶も起き上がり胡座をかいて座った。
「…………蓮花さんと、戦うんだね」
 呟くような晶の言葉に、桐花はこくりと頷いた。
「いつ?」
「一週間後の、夜です。向こうから手紙が届きました。……翼がないと、きっと勝てません」
「そっか……でも、ごめん。本当にどこに隠したか、思い出せない」
 小さな手が、パジャマの布を強く握り締めた。
「戦わずにすむ方法はないの?」
「ありません。それに戦いを避けたところで、それは後回しにするだけです。根本的な解決には、なりません。私と蓮花が戦うことは、これだけはきっと、変わりようのない運命です」
 垂れた髪に隠され、表情は窺い知れない。
「それに、本当は、私だって……」
 戦いたくなんか、ないのに。
 呟きは確かに、晶の耳に届いた。
「……なら、どうして戦おうとするの? 戦わずにすむ方法はない、って言ったけど、そんなことないんじゃないかな。まだ見つけてないだけで」
「……でも、きっとこのままじゃ──避けてるばかりじゃ、いつかみんなを巻き込んでしまいます」
 小さく、声が震える。
「私一人ならどうなってもいい。いくら傷ついても構わない。蓮花と相討ちになろうと。でも、周りの人達まで巻き添えになるのは、嫌です」
「みんなが、好きだから?」
 頷きが返ってきた。
 みんなが好きだから。今の自分の在る世界が大切だから。
 それは引きずり落とされた世界だ。“姑獲鳥”を捨てさせられ、ヒトの世界に貶められた自分。最初はとても嫌いだった世界。嫌で嫌で嫌で嫌で、抜け出したかった世界。なのに──いつから自分は、この世界をこんなにも愛しく思えるようになったのだろう。失いたくないと、思うようになったのだろう──
「やっぱり優しいよ、桐花は」
 近づき、その黒髪を一房、手に取る。晶の手元に寄せられる自分の髪につられるように、桐花は顔を上げた。
「僕に対しては、いつも素っ気なかったけどね」
 くつくつと、晶は小さく苦笑した。
 髪から手を離し、そのまま手を伸ばす。ぱら、と髪が、柔らかく落ちた。
「……桐花」
 自身にも聞こえないほどの呟き。
 言いたいことが、あった。おそらくは八年前から、ずっと目の前の少女に言いたいことが。だけどそれは、口にすればするほど陳腐な言葉になりそうで、自分の気持ちが嘘になってしまいそうで、言えなかった言葉。今も、言えない言葉。
 だから、一言。
「──ごめん」
 桐花が、その言葉の意味を理解するより早く。
 晶は自分の唇を、桐花のそれに押し当てた。
「────────!」
 驚く気配が伝わってくる。が、離れられない。晶の手が、桐花の頭を後ろから抱いている。桐花の手が晶の胸を押し返そうとするが、それには満足な力が込められていない。
 柔らかく、暖かい感触。間違いない、桐花の唇。伝わってくる温度は、今ここに彼女が確実にいるという証明。
 離したくない、と思った。一週間後には、消えてしまうかもしれない暖かみ。──そんなこと、させたくない。
 じわりと、桐花の口に舌を入れた。
「ん───ん!」
 今までより強く、桐花は離れようとする。それが嫌で、抱き締めて押さえつけて、桐花の舌を求めた。
「あ……ん、ぅ……!」
 漏れる吐息。
 晶は、既に目を閉じていた。目を開ければ多分、桐花の嫌がる顔があるのだろう。そんなものを見たらきっと、自分はすぐに手を離してしまう。
 だからこのまま。せめて今だけ。
 何も見えないまま、ただ桐花の舌を求めた。
「ふっ……ぅ」
 漏れた吐息の隙に、晶は舌をねじ込んだ。その奥で感じる、ざらりとした感触。触れた瞬間、桐花の舌は素早く引っ込んだ。が、晶はそれを追い、無理矢理触れ合おうとする。
「ぅく……ッ!」
 息ができないのか、桐花は詰まるように喘いだ。だが止まらない。今更、止まるはずもなかった。それは、止めることなど最初から無理な激情。
 桐花の舌に触れているだけで、晶の意識は飛びそうになる。それほどまでに、気持ち良かった。ともすれば快楽に沈みそうになる自分を、桐花につけられた指の傷の痛みが繋ぎ止めていた。
「……は……」
 桐花の腰が浮く。抵抗はとうになくなっている。全身に、もう力が入らないのだろう。腕をだらりと下げ、抱き締める晶のなすがままになっている。
 そこでようやく、晶は桐花を解放した。淫らな水音と共に舌が引き抜かれ、桐花の頭が晶の肩に落ちる。舌の上で混ざり合っていた唾液を嚥下し、うっすらと目を開いた先には、桐花の白いうなじがあった。晶はそこに、優しく、しかし跡だけはうっすらと残るように、口付けを一つ、落とした。
 しなだれかかる桐花の、心臓の鼓動を感じながら、晶は優しくその背中をさすってあげる。
 荒れた息が落ち着くのを待って、晶は言葉を紡いだ。
「──逃げようか」
「え……?」
 それでもまだ途切れ途切れの息のまま、桐花は反問する。
「二人で逃げちゃおっか、いっそ。この場所も、今の生活も、全部捨てて、蓮花さんから」
「でも、逃げたりしたら、また……」
「だから遠くに。蓮花さんが追ってきても、誰も巻き込まないようにね。蓮花さんが諦めてくれたら、またこの場所に戻ってくる。諦めないならずっと逃げ続けよう。そうすれば誰も死ななくてすむ。それに、桐花だって戦いたくはないんでしょ?」
「確かに、そうです、けど……私は、戦わなくちゃ──」
「あのね」
 溜息の音が、桐花の耳に届いた。少しだけ、呆れたような声音。
「僕は桐花に戦って欲しくないだけだよ。傷ついて欲しくない。死んで、欲しくない。だから君を連れて逃げ出したい。臆病だとか根性なしだとか言われても構わない。逃げてる途中で、何かの理由で死ぬかもしれない。でも、戦うにしろ逃げるにしろ、どっちを選んでも死ぬかもしれないのなら──僕はより長く生きられる方を選ぶよ」
 優しく、桐花の頭を撫でる。
「まぁ、僕と一緒だったところで、僕はただの足手まといかもしれないけどね。だからその時は、君を襲う全ての危険への盾にしてくれればいい。この想いが永遠のものだなんて言う気はないけれど……今だけは確実に、僕は僕より君が大事だ」
 くすっ、と小さく、晶は苦笑を漏らした。
「何だか、順序を色々と間違えてる気もするけどね。これだけ、言わせてもらえないかな。
 ────好きだよ、桐花」
 そのまま、晶は桐花を優しく抱いていた。
 桐花もそのまま、その腕に抱かれていた。

 ──どれくらいしてだろうか。短かった気もするし、とても長かったようにも感じる。不明確な時間の流れの中で、そっと、桐花は晶の腕を解いた。
「やっぱり、駄目です」
 ぽつりと言って、晶の胸を押し返す。その言葉に、晶は心が痛くなった。さっきの自分の言葉を、拒絶されたと思った。──それも仕方がないと、納得している自分もいるが。
 が、それは違ったようである。
「逃げては、駄目なんです」
 それは、逃げようと言った晶への返答だった。
 密かに安堵しつつ、言葉を紡ぐ。
「……でも、蓮花さんと戦いたく──」
「違います」
 晶の言葉を中途で遮り、俯いたまま首を振る。
「──私が逃げては駄目なのは、私自身からです」
 ベッドから降り、部屋の真ん中に桐花は立った。差し込む月光は彼女の腰から下しか照らさない。ただ闇の中から自分を見据える視線を、晶は感じていた。
 ふぅ、という音。呆れたような、疲れたような、そして哀しそうな、晶の溜息。
「……結局、戦うんだね。どちらかが死ぬまで」
「はい」
 答えはすぐに返ってきた。
「引き止めても無駄、か」
 天井を見上げ、もう一度溜息。
「────分かったよ。君を説得するのはもう諦める。だけど、こっちも勝手にやらせてもらうからね。さっき言った通り、二人には戦って欲しくないから」
 まっすぐに、桐花を見つめる。その視線だけで自らの意志を伝えるように。
「……勝手にしてください」
 小さな声で言って、桐花はドアに足を進めた。
「そろそろ寝ます。夜分遅くにすいませんでした、お兄ちゃん」
「ん。おやすみ、桐花」
 ベッドに座ったまま、晶は軽く手を振った。それに軽く会釈を返し、桐花は部屋を出た。
 ドアが閉まり、足音が遠ざかる。壁一枚隔てた向こうで、ドアが開き、閉じる音。桐花が部屋に入ったのだろう。
 晶はひとつ吐息し、こてんとベッドに倒れ込んだ。
「……あー……」
 意味もなく、発音する。
 そのまま、ころんとベッドに仰向けになった。
 右手を掲げる。赤黒い血痕が、人差し指の付け根から手の甲をつたい、手首まで流れている。──傷口は、とうに塞がっている。
 明日の朝までには、この痕は跡形もなく消えているのだろう。人外の証明。
 目を閉じて、思う。
 結局これは、人ならぬ身の人知れぬ物語であるのだと。

 ────────。

 ついたその嘘はおそらく自分の今まで生きてきた短い人生の中で最も罪深く。
 そしてこれからの自分の人生においてもまた最も罪深く決して拭えないもの。


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