あそぼう、と彼女は言った。
 うん、と僕は受け入れた。



       @. 逢魔ヶ辻/Count down



 影が巨木の梢に降り立つ。三日月の光をその背に受け、暗い眼下の街並みを見下ろしていた。
 小さく、何事かを呟き、それは再び飛び立った。
 後には、それ以外何も残されなかった。蹴られた梢は揺れず、通り抜けられた空気のうねりもなく──ただ、一枚の羽根それだけが、ひらひらと舞って地に落ちた。

 その動きに気づいた者がいた。
 その人影は仰向けの姿勢から跳ね起き、窓に駆け寄り開け放つ。
 目を細め、夜空を見上げる。雲の隙間から覗く氷点下の月光が、立ち並ぶ建造物に鋭角的な陰影を持たせていた。
 轟、と耳元で風が鳴った。長い髪が波のようにはためいた。──しかし、庭の木々の枝葉はまったく動いていない。
 空気のうねりが激しく鼓膜を叩いているというのに、髪が激しくたなびいているというのに──庭の木は全く揺れていなかった。葉も梢も枝も、毛幅ほど震えることさえしない。
 ごうごうと彼女の周りだけで身をくねらせる風は、やがて大人しくなっていき、最後には何事もなかったかのように再び静寂が訪れた。
 人影は振り返った。──部屋の中のものも、同様に何一つとして乱れていない。
 再び視線を空に向ける。
 ────いる。
 呟く。遠すぎて見えはしないが、確かにそこにそれはいる。視覚は捉えていないが、感覚が捉えている。
 影は、空の一点を見据えたまま動かない。
 どれほどの時が流れたのか。
 やがて人影は目を伏せ、俯いた。そして再び顔を上げることはなく、そのままベッドに戻った。
 ベッドの中はすっかり冷たくなっていた。

 気づいた者はもう一人いた。男だ。
 闇の中、空を見上げる。その背中では、ざわざわとマントが夜風に波打っていた。
 それと、それを見上げる者を見る。それの方は分からなかったが、見上げる者には覚えがあった。この町の住人に関することは全て記憶してある。姿形住所氏名年齢に至るまで。とはいえ、個々人の性格などについてまでは知らない。彼が知るのは、あくまでデータ上の全てである。
「──ふん」
 つまらなそうに鼻を鳴らすと、男は背を向け、歩き出した。
 懐から携帯電話を取り出し、番号を呼び出す。
 三回のコール音の後、相手が出た。男は手短に要件を告げ、相手はそれを承諾した。
 再びそれを懐にしまい、男は一度だけ振り返った。
 銀弓のような月が、凄惨なまでに美しく地上を照らしていた。


         §


 ──────うるさい。
 のろのろとベッドの中から手を伸ばし、脳細胞を破壊せんばかりに刺激する目覚し時計の頭を叩く。それでようやく電子音は止み、伸ばされた手の主、冴島さえじましょうは再びまどろみの中に落ちていった。
 ……五分経過して、彼はようやく本格的に行動を開始した。むくりと上半身を起こし、枕元に置いてあった眼鏡をかけ、時計の文字盤を見やる。現在時刻、午前七時一五分。目覚ましをセットしていた時間は、確か七時ちょうどのはず。──何てことだろう。内心、彼は呻いた。五分のつもりが、実際には一五分も寝ていたらしい。
 自宅から学校まで、自転車で二〇分。朝の課外授業は毎朝七時四五分から始まる。つまり、彼に残された時間は残り一〇分。はっきり言って、まったく時間がない。
「むぅ…………」
 しかし、慌てるべき状況であるというのに、晶は極めて緩慢にベッドから這い出た。最早惰性で制服に着替え、通学鞄を持って部屋を出る。おぼつかない足取りで階段を降りていると、何度か足を踏み外しそうになる。やはり朝の階段は危険だ。胡乱な頭でそんな取り止めのないことを考えつつ、晶は洗面所に入った。
 蛇口を捻る。水が出る。水を掬って顔に打つ。
 ぱしゃん、と顔で水が弾ける。水道管の中で一夜を過ごした、冷たい水が皮膚に浸透していく感覚。二度ほどそれを繰り返して、脳髄はようやく完全に覚醒した。
 顔を拭いて鏡を見るが、何故か視界はぼやけていてよく見えない。首を傾げ、ほんの少し考える。そこでようやく、眼鏡を外していたことを思い出した。どうやら、まだ完全に目覚めたわけではないようである。
 あくびをかましながら、ダイニングに向かう。料理を作っていたらとても間に合わない。とりあえず牛乳だけでも飲んでいこう。腹に何か入れないと、昼までもたない。
 母さんがいたらなぁ、と小さく呟いた。そうすれば遅刻寸前になることも、朝食抜きになることもないのだが。
 別に母親と死別したとか、そういうわけではない。
 四日前から、晶の両親は家にはいなかった。父が一ヶ月間の長期出張に出ることになり、それに母がついていった。父は家事全般が苦手であるためだ。
 だがだからといって子供を置き去りにするとはどういうことか。学校があるため仕方のないことなのだが、ゴミを出す日さえ教えずただ貯金通帳だけを手渡して家を出るというのは、結構放任な気もする。
 まぁ、その分信頼されていると思えば、悪くはないのだが。
「──おはようございます、お兄ちゃん」
 唐突に、聞き慣れた声が響いてきた。声の方向に目をやると、今まさに玄関から出て行こうとしている、無表情な少女の姿があった。
 黒髪黒瞳。髪は長く腰まで届く程。切れ長の目は、いかにも気の強そうな印象を与える。
「ああ、おは」「では先に行ってます」
 ばたん。
 晶の朝の挨拶が終わらないうちに、少女──妹の桐花きりかは外に出て玄関を閉じてしまった。この家では、相変わらずの光景である。
 晶が溜息混じりにダイニングのドアを開けると、途端に美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
 テーブルの上には、味噌汁と茶碗に盛られたご飯、それに昨日の残りの天ぷら。どれもまだ温かい。律儀にも、桐花が用意してくれていたらしい。心の中で感謝しながら、椅子に座り、手を合わせる。早口でいただきますと言って、朝食をかき込み始めた。残念ながら味わっている余裕はない。
 五分とかからず全てをたいらげ、晶は鞄を引っ掴み、家を出た。

 六月の朝の空気は湿っていて、泣き出しそうな雨雲は、相変わらず空を覆っている。
 梅雨という季節が、彼はあまり嫌いではなかった。普通じめじめしていて嫌だ、と言う人間の方が多いのだろうが、晶は逆にそれが好きだった。なので時々、小雨の中傘をさして散歩に出たりする。
 一度走るのをやめ、息を整える。最初から最後まで走り通しというのは、さすがに無理だ。大きく息を吐きながら、曇り切った空を見上げた。
「雨、降りそうだなぁ」
 何気なく呟いた。と、その途端、鼻の頭に何か小さな粒が落ちてきた。それが何であるのかを確認する暇もなく、視界の一部が歪んだ。
「……降ってきた」
 言った途端に降ってくるとは、天気の神様というのも中々意地悪だ。
 見上げていた晶の眼鏡のレンズに、次々と小さな雨の雫が落ちてくる。
 小雨の中の散歩は好きだ。だがそれはあくまで傘があるという大前提の下。それに──雨は段々と強くなってきているようだった。
 ずぶ濡れは御免だ。慌てて、再び晶は走り始めた。

 ぜぇぜぇと喉が喘ぐ。胸を押さえながら、晶は息を整えることに努めた。教壇に立つ国語教師の松永が板書しながら何か言っているが、全く耳に入らない。
 あの後、どうにか雨が本降りになる前に学校に着き、何とか課外授業にも間に合った。さすがに疲れ果てているが。
 やや落ち着いてきた心臓の鼓動を感じながら、何気なく晶は窓の外に目を向ける。外では雨が激しさを増し、既に土砂降りになっていた。帰りまでには収まってくれるといいのだけど。そんなことを考えた。
「──えーと、じゃあこの問題を、冴島ー。冴島晶ぉー」
 ご丁寧にもフルネームで呼ばれ、窓から視線を戻した。黒板に書かれている内容と、開かされた教科書のページから推測し、適当に答えを弾き出す。
「えぇと、助動詞の『ず』です」
「正解。いいかー、ここは──」
 続けられる松永の説明に耳も貸さず、再び窓の外を見る。
 雨が止む気配は、今のところない。
 ──────。
 ────────────。
 ────────────────────────。

「やっぱ止まないか……」
 溜息混じりに、空を見上げる。相変わらず雨は降り続けていた。
 朝に比べ幾分ましとはいえ、それでもこの中を走り抜けるには抵抗がある。放課後の下駄箱で、晶は半ば途方に暮れていた。
 いつもなら部活──晶は美術部である──に行っている時間だ。しかし、今日は学校の都合で美術室が使えないらしく、結果今日美術部は活動できなくなってしまっていた。
 雨が降り止むまで校内で時間を潰しても良かったが、ますます雨が強くならないとも限らなかった。そうなったら馬鹿馬鹿しいにも程がある。本降りになって出て行く雨宿り、というやつだ。
 ──す、と音もなく、晶の傍らに影が滑り出た。
 晶の横に立ったのは、畳んだ傘を持って佇む、黒髪黒瞳の少女──桐花だった。
 視線が、絡んだ。
「…………」
「…………」
 二人とも終始無言で、互いに見詰め合っていた。
 ばさっ、と彼女の手の中で、音を立ててピンク色の傘が開いた。

 ──ある意味なし崩し的に。
 晶は桐花の傘に入れてもらうことになった。勿論条件として、傘を持つのは晶である。
 ふと、頭一個下にある桐花の顔を盗み見る。いつも通りの、気の強そうな顔立ち。
「──何ですか、お兄ちゃん」
 訝しげな視線に気づいてか、怪訝そうに眉根を寄せて、桐花が見上げてきた。
「あ……いや、どうして傘に入れてくれたのかな、って」
 そうなのだ。別に冷たいというわけではないのだが、桐花は晶を避けている節がある。──避けられる原因は晶にあり、晶はそれを自覚しているが。
 ともあれ、その桐花が傘に入れてくれるということは、晶にとっては少し驚くべき事態であった。
「濡れたかったんですか?」
「いやそんなことはないけど、桐花らしくないと思って」
 その言葉に、桐花は即座に切り返してきた。あからさまにむっとした表情を浮かばせて。
「何ですか、お兄ちゃんは私が自分の兄を雨の中に晒して風邪を引かせようとする、酷い妹だとでも思ってるんですか」
「まさか」
 思わずくつくつと含み笑いを漏らす。拗ねたように言う桐花が少しおかしかったからだ。
「……何がおかしいんですか」
「いや別に」
 怒ったように言う桐花に、晶は肩を竦めてみせた。
「ああ、それと──」晶は少しだけ逡巡し、「せめて二人きりの時ぐらい、いい加減『お兄ちゃん』って呼ぶのやめにしないか?」
 途端、桐花の瞳に剣呑な光りが灯った。言わなきゃ良かったかな、と後悔する。
「嫌です」
 簡潔に、しかしこれ以上なく鋭く拒絶して、桐花は顔を背けた。
「──これは復讐です、『お兄ちゃん』。ささやかですけれど、私は絶対にあなたを名前で呼んであげません。お兄ちゃんが私にした仕打ちを、忘れたわけではないでしょう? ──大体それ以前に、妹という立場の人間は、兄を名指しで呼んだりしません」
 後半をやけに強調して、桐花は言い放つ。その刺々しい口調にぐぅの音も出せず、晶はただ頷くしかなかった。
(まぁ、仕方ない、か)
 諦め気味に吐息する。と──

 ──ぱっしゃぁぁん。

 通り抜けた一台の車が、大きな水溜りの水を弾いて歩道にぶち撒けた。そして運悪く──車道側に面していたのは晶だったりする。
「…………最悪」
 泣きっ面に蜂というのは、こういうことを言うのだろうか。最早完全に意気消沈して、ただそれだけを呟いた。ちなみに桐花は都合よく晶の陰に隠れて、全く濡れていない。
「……急ぎましょうか」
 桐花は半ば呆れ気味にそう呟いた。晶もそれに素直に頷くが──その呆れの中に、桐花が僅かな笑いを含んでいたことは、正直感に障っていた。
 ──ふと、
 桐花が目を細め、周囲に視線を巡らせた。瞳に、明らかな警戒心と、そして敵意が宿る。
「……どうかした?」
 自然と小声になっていた。桐花はしばらくきょろきょろと周囲を見渡して、
「いえ──気のせいです、多分」
 首を左右に振って、言った。
「早く帰りましょう。そのままだと、本当に風邪をひきますよ」
 それだけ言い放ち、桐花は止めていた足を再び動かした。
「────」
 晶は、一度後ろを振り返った。……人の姿はない。ただもう一度、横を車が通り過ぎていった。再び水が跳ね、目の前で水飛沫が舞った。今度は頭から被らずにすんだ。
「お兄ちゃん?」
 数歩先で、桐花が呼びかける。
「ああ、今行くよ」
 前を向き、歩き出した。
 桐花の傘に入って、そしてもう一度だけ、晶は後ろを振り返った。
 相変わらず誰もいない。──今度は、気配さえも。
 雨は随分と、小降りになっていた。

 十五分ほど歩いて、ようやく家に着いた。さすがに濡れたまま家の中に上がるわけには行かなかったので、とりあえず桐花にタオルを持って来てもらった。
「……あーあ」
 鞄の中を見て、溜息をつく。教科書が半分ほど濡れていた。早く乾かさないと、今の季節、容易くカビが生えてしまう。それだけは御免だ。
 家の奥に消えた桐花が、タオルを携えぱたぱたと戻ってきた。
「早く身体を拭いてください。それと今お湯を沸かしてますから、後でシャワー浴びてください。身体を暖めないと、本当に風邪をひいてしまいます」
「ああ、ごめん。ありがとう、桐花」
「風邪ひかれたら看病するのは結局のところ私です。そんなの迷惑以外のなにものでもありませんから」
 ふい、と背を向け、桐花は再び家の奥に消えた。
 照れ隠しなのかそれとも本気で言ったのか。前者であればいいのだけど、と晶は思った。
 何度目になるのか溜息をつき、晶はぐしょ濡れになった靴を脱いだ。

         §

「どう思いますかな、こりゃ」
 座り込んだ男は、どこか楽しげに言った。返事はない。男も元より返事など期待していなかったが。
「やっぱ何か来とりますなぁ、芦屋さん」
 男は「どっこらしょ」と年寄りじみた声をあげて立ち上がり、後ろを振り仰いだ。
 そこにいたのも、また男だった。語りかけた男よりも随分と背が高く、一九〇センチはゆうに超えている。
 二人の男は、一言で言うなら黒だった。季節はもう夏だというのに、揃って黒いスーツに身を包み、履いている靴もネクタイも黒だった。
 ──それは喪服だ。だから、黒い。
「さて……これが何のもんだか分かりますかね」
 言って、男は手の中のものを相方に差し出した。
 渡した男の年齢は、およそ五〇代後半といったところか。手にも顔にも皺が目立ち、すっかり老人のていを見せている。停年間近の課長というイメージがぴったりだ。髪は白髪と黒髪がないまぜになって、灰色に見せている。かけられた太いフレームと分厚いレンズの眼鏡は、最早年代物と言って差し支えないほどの代物だ。彼は三〇年来、この眼鏡を使い続けている。そのレンズの奥の黒い瞳は、肉体の衰えとは裏腹に、子供じみた無邪気で楽しげな炎がゆらめいていた。
 もう一人の男──芦屋と呼ばれた男は、反対に若かった。先の男が課長なら、こっちは二〇代半ばの新入社員といったところだ。もっとも、その瞳に色はなく、意欲に燃える新入社員とは決して言えないが。人生を達観したというか、冷笑しているというか。少なくとも能動的な色は、その瞳には見当たらない。黒髪を肩で切り揃えたこの男の方が、ある意味遥かに枯れていた。
 芦屋は差し出されたそれを受け取り、じぃっと食い入るように──ではなく、ただ見透かすような視線でそれを見つめた。
 およそ五分が経過しても、芦屋は動かなかった。瞬きさえしない。もう一人の男も一切喋らず、ただじっと待っていた。
 男は芦屋の性質をよく理解していた。付き合いは、彼が過ごしてきた年月からすれば長いとは言えないが、幾度も共に場をこなしてきた相方だ。阿吽の呼吸、とまではいかないにしても、大抵のことは言わずとも伝わる仲だった。
「──高峰」
「分かりましたか」
 即座に反応した男──高峰に、芦屋は頷いた。
「殺しに来ている」
「誰を?」
「──同種を」
 簡潔に芦屋は呟き、それを高く天に掲げた。
 それは一枚の、美しい翡翠色の羽根だった。
「残滓だ」
 芦屋は独り言のように呟く。
「残っている。これは──」
 再び芦屋は停止した。
 入った、と高峰は悟った。再び彼は、彼にしか見えない別の世界に入ったのだと。
『霊視』。そう呼ばれる技術である。芦屋は今、その羽根に残る持ち主のかすかな残滓の糸を辿り、更にその向こうを見ようとしているのだ。
 その領域は高峰には決して知りえない領分だった。故に、彼が何を見、聞いているのかは決して知れないが──
「……何が、見えましたかね」
「間違いない」
 芦屋は羽根を高峰に手渡した。高峰はそれを、懐から取り出した厚手のビニール袋に丁寧に入れた。
「張っていた方の、片割れだ」
「やはり、ですか」
 相方の答えに高峰は満足そうに微笑み、眼鏡のブリッジを押し上げた。
 ──決して知れないが、彼のその力は、いわば社会の安全と平和のためには、とても役立つものと言えよう。
 皮肉な言葉だ、と高峰は声に出さず笑った。彼を紹介された時、上司が歪んだ笑みを浮かべながら言った言葉。──その上司も、最早この世にはいない。
「では参りましょうか。これから、やるこたぁたくさんありますでな」
 高峰は身を翻す。芦屋もそれに続き、二人はその場を後にした。


         §


「ふぅ……」
 バスルームを出ながら、溜息。しかし今度のそれは気鬱からではなく、風呂上りに感じる暖かな満足感からのものである。
 温もった身体に当たる、窓からの風が心地良い。
「桐花ー、お風呂空いたよー」
 リビングのドアを開け、呼びかける。──返事はない。
「……桐花?」
 桐花はテレビの前に立ち尽くしていた。食事の支度でもしていたのか、制服の上にエプロンを着たままだ。ある意味マニアックだな、と晶はどうでもいいことを考えた。
 だがそんなふざけた思考もすぐに止まった。桐花の、異様な雰囲気を感じ取ったから。
 今の桐花は凄く変だ。何故だかは分からないが、晶はそう思った。
 十数秒前──ちょうど晶がリビングに入ってきた時が、彼女が動きを止めた瞬間だったのだろう。
 桐花は不動の眼差しで、テレビの画面を凝視していた。その顔に、取り立てて表情は浮かんでいない。だがその瞳は、ありえない水色の光をたたえた瞳は、途轍もなく、危うい──
「──桐花っ」
 不安になって、思わず強く呼びかけていた。何に不安になったのかは分からない。ただ、何と言うか──今の桐花は、とても危ない気がしたのだ。……何が危ないのか、それもまた、分からないのだが。
「──お兄ちゃん。もう上がったんですか?」
 発せられた晶の言葉に反応してこっちを向いた桐花は、もういつもの桐花に戻っていた。だがそれは、晶にはそれはとても不自然に思えた。
「うん。桐花入る?」
 ごく自然に振舞う。何も気づかなかったように。
「もうすぐご飯ですから、その後で入ります」
 それだけ言って、桐花は台所に引っ込んでしまった。やっぱり変だ、と口の中で呟く。素振りは変わらないが、彼女の雰囲気は、いつもと違う。
 思考を巡らせつつ、晶は何とはなしに彼女が今まで見ていたテレビの画面に目を向けた。
「うーわ」
 眉をひそめる。画面には、『真夜中の恐怖 小動物連続殺害事件』とある。これを見て桐花はあんな表情をしていたのだろうか。
 それによれば、ここ最近真夜中の間に、主に犬や猫を始めとする動物が次々と殺されているらしく、その身体はことごとくバラバラに引き裂かれているのだそうだ。
「食事前にこんなの見せないで欲しいよなー……」
 さすがに食欲が減退するというものだ。見てしまったのは自分だが。
「ええと、場所は萩間町を中心に──って」
 隣の町だった。
 偶然にも、事件が起きているのは、ここ、竹見町の隣町らしかった。物騒な話である。
「お兄ちゃん、ご飯できましたよ」
 ……残したら怒られるかな。
 晶は憂鬱な溜息を吐きながら、食卓に向かった。

 結局、さっき見たニュースのせいで、まともに食事が入らなかった。


         §


 ふるり、と、闇が、『揺』の行動を起こした。
 揺れたのか、揺らいだのか、あまり変わりはないのだろうが、それでも彼にはどちらか分からなかったから、揺、という一文字を考えた。
 まぁ、それもどうでもいいこと。
 闇に指を這わせた。
 ふるり、と、闇が、『揺』の行動を起こした。
 彼の、幼子のようなたどたどしい指先の動きに合わせて、闇がゆらゆらと揺れ、揺らぐ。
 それは、当然のこと。
 触れれば揺れ揺らぐ。触れなければ動かない。触れられなくても、無論動かない。
 彼は水生生物なのだ。闇という水の中に泳ぐ生物。そして彼も、それを自覚していた。
 夜という時間は、闇という空間は、自分の住処であると、彼は相方に言ったことがある。

 なれのはて、と評されたことがある。

 その言葉を、思い出すたびに彼は納得する。
 闇というモノに直接触れられるように進化──或いは退化か──した生物は、最早生物ではない。闇に触れられるとすれば、同じ闇であるか、もしくは概念そのものでないとならない。──そう、闇は概念というカタチでしか存在しない。
 闇は無論のこと非物質であるし、そして現象ですらありえない。光はまだ現象の部類に入る。現に、光学と呼ばれる専門の分野があるし、ファイバーケーブルはそれこそ光という現象を情報伝達手段として利用している。
 だが闇はどうか。そもそもあれは在るというだけで有りはしないのだ。闇を操作する技術など存在しないし、これからも多分確立することはないだろう。少なくとも人間には。
 だから本来、光と闇は対極の存在ではない。現象と概念では、そもそも在り方が違う。それにむしろ、光は闇の中でこそ光たりえるのだから、ある意味で、闇は光が在るための基盤マトリクスなのかもしれない。
 その通りだ、と彼は思った。この広大なる宇宙は本来、闇だけであった。否、むしろ闇という概念すら存在しないはずだったのだ。闇しかないのだから。唯一であるのならそれに区別のために名はいらない。だのに、そこに恒星が生まれその光が差し込んだ故に、闇は概念となってしまったのだ。
 つまり、闇とは本来空間のことであった。本来等価であったはずのそれは、光が差し込んだことにより、照らされた部分と、影とに別れ、結果空間と闇は別であると考えられるに至る。──だから本来、ヒトが見る闇とは闇ではなく、光という不純物を交えない純粋な空間である。なのにヒトはそれを闇と呼ぶ。だから闇は概念だというのだ。
 ヒトの見る闇は、つまるところ『闇』という概念を押し付けられた空間でしかないのだ。

 なら、その闇に触れられる彼は何だと言うのか。

 彼は闇に触れる。闇という概念を媒介として空間に触れる。それが一体どういうことなのかは、彼にしか理解できまい。
 ──否、少なくとももう一人いた。自分をこんな風にした張本人が。
 人間ヒトでなくした人間ヒトでないものが。
 だが別に、彼はその人物を恨んではいなかった。感謝もしていないが。ただその人物の介入があったから、自分はここにこうして在る。介入がなかった場合、自分の人生はとっくに終わっていたのかもしれないが、その道を奪われたことは少し口惜しく思っている。これを未練と呼ぶのなら、そうなのだろう。そして未練が怨恨に繋がるなら、自分は彼の者を憎んでいるのかもしれない。意識しようとしまいと。
 直方体の空間に、光源は一切なかった。後は、あまり横たわることのないベッドと、座ることのない椅子と机、何も並んでいない本棚、それくらいしかこの部屋にはなかった。
 そして彼は闇の中、目を閉じた。そこにあるのもまた、闇ばかりである。

 ──こんこん、とドアが部屋のドアがノックされた。時間は先程から四〇分ほど経過している。どうやら珍しく、眠っていたようだった。
「……何だ」
 聞かずとも誰が来たのかは既に分かっていたが、返事をせねば扉の向こうの人物は心配する。だからとりあえず、自分の存在を知らしめる形で声を発した。
「高峰です。あたしらに直接お呼びがかかったようですよ、芦屋さん」
「すぐ行く」
 簡潔に返事し、気配が遠ざかるのを待つ。彼は一つ嘆息し、瞼を開いた。
 やはり周囲は、闇だ。
 歩き、少しだけドアを開ける。隙間から光が刃のように細く入り込み、闇を切り裂いた。
 大きく開く。光が視界を満たした。芦屋は眉をひそめ、しかしすぐに無表情を取り戻し、歩き始めた。

 空が瞬いた。
「…………雷、ですな」
 窓に目をやる。空は曇っているが水滴はついていない。
「雨は降っていませんな」
 雲の向こうの日は沈み、時刻は既に七時過ぎ。
「やれやれ、雨のない雷は危険なんですがねぇ。木にでも落ちたりしたら一気に山火事になりかねませんしなぁ」
 のほほんと呟いて、老人は窓から目を離した。
「独り言は自閉症と老化への第一歩だぞ」
「おや、ようやく来られましたな」
 聞きなれた声に、視線を廊下に向ける。ちょうど、芦屋が音もなく歩み寄ってきたところだった。
「待っていたのか?」
「いえいえ、丁度雷が鳴ったところでしてな、思わず足を止めていたんですわ」
 朗らかに笑い、高峰は言った。芦屋は子供じみたその表情を一瞥し、再び歩み始めた。
「用件は」
「さて──呼ばれたと聞かされただけですからな。行きゃあ分かるということでしょう」
 嘘だな、と芦屋は確信していた。この妙な言葉遣いの老人は、間違いなく何かを知っている。単なる推測を抱いているだけかもしれないが、それが今から聞かされる内容から当たらずとも遠からず、とこの男は思っていることだろう。
 芦屋は高峰の性質をよく理解していた。付き合いは、彼が過ごしてきた年月からすればとても短いものだが、幾度も共に場をこなしてきた相方だ。阿吽の呼吸、とまではいかないにしても、大抵のことは言わずとも伝わる仲だった。
「──食えん男だ」
「おや、何か言いましたかね」
 変わらぬ笑みが自分を振り向く。芦屋は沈黙で応じた。
「ともかく行きましょうか。所長も待ちくたびれとる頃でしょうしな」
 笑みを絶やすことなく、高峰は歩き出す。芦屋はいつも通り、その後に続いた。
 かつ、かつ、と硬質な響きが、狭い廊下に響き渡る。
 二人の他にも、何人かの人間が廊下を歩いていた。だが彼らは二人を目にすると、一瞬動きを止め、すぐさま廊下の脇に寄ってしまう。
「こ──こんにちは」
 すれ違った一人の女性所員が、ぎこちなく挨拶をする。
「はいこんにちは」
 それに高峰は片手を上げてにこやかに答えた。
「相変わらずの人望だな」
 揶揄するように芦屋が言った。
「はっはっは、これでも若い女性からは慕われとりますでな。『小学校の校長先生が似合ってる』と言われたことも、何度か」
 得意げに笑って、高峰。それに芦屋は鼻を鳴らし、答える。
「随分と物騒な校長だな」
「いえいえ、できりゃあ生徒の安全を守る、頼れる校長先生になりたいものですなぁ」
 どこまで本気なのか、老人は言った。
「再就職の参考にでもさしてもらっとりますよ。……ああ、年齢的に駄目ですかなぁ。校長の停年ってどれくらいなんですかね、芦屋さん」
 知るか。
「それに、向けられる人望の大半はあなたへのもんでしょうに。芦屋さん」
「ふん──俺に向けられるのは人望などではない。あるとすれば畏怖だ。それは」
「そんなこたぁありますまい」
 あくまでにこやかに、高峰が反論した。
「ある。例えば『信仰』というものは崇敬と畏怖の両方が含まれる。俺達に向けられるものをそれに例えるなら、お前に崇敬が向けられて、俺には畏怖が向けられる」
 断ち切るような口調で言い放ち、芦屋は横目で老人を見下ろした。
「もっとも──本当に怖いのはお前かもしれんがな」
「いやはや、照れますなぁ」
 困ったように顔を赤らめ、高峰はこめかみを掻いた。褒めてない。
 芦屋の言葉は、決して冗談ではなかった。今まで生きてきて、これほど掴み所のない人間は、高峰と、かつて宿敵であった──いや、今もか──男の二人しかいない。
 芦屋はヒトの心のうちを、ある程度なら見透かせることを自負していた。それなのに──その二人に限って、まったく見透かすことができないのだ。
 だが、二人の見えない『質』はまったくの正反対だ。高峰が心を暗幕で覆っているとすれば、さしずめあの男のそれは野外の劇場だ。何も隠していない代わりに何もなく、ただ果てしない地平と空が広がるばかりの舞台。
 高峰が気づかぬほど小さく、鼻を鳴らす。
 ──所詮、あれのようにはなれんか。
 それは自嘲だった。
 唐突に隣の高峰が足を止める。気づけばいつの間にか、目的の場所に到着していた。
 目の前には両開きの扉。掛けられた簡素なプレートには『所長室』とだけある。
 軽くノックを二回。
「どうぞ」
 女性の声が答え、高峰は続いて扉を開いた。
「いらっしゃい。元気そうね、高峰、芦屋」
 そう言って、黒い革張りの椅子に座っていた妙齢の女性は微笑んだ。
 一目見て分かるほどにきめ細かく柔らかい頬。垂れがちな煉瓦色の目は、優しげに細められている。ウェーブのかかった茶色い髪を結い上げ、唇は真紅の口紅に彩られていた。茶色い女性用のフォーマルスーツに身を包み、机に頬杖をついて、彼女はそこにいた。
「相変わらずべっぴんさんですな、笹垣所長」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいわ」
 笑みを一層深め、笹垣は言った。
「──じゃあ、早速本題に入ろうかしら」
 笹垣は机の上の書類の束を高峰に差し出す。
「……『羽根』の分析結果、ですか。早いもんですな。つい、二、三時間前に渡したと思いましたが」
「嫌な予感がしたから優先的に、ね。それに、分析自体はサンプルがあったから照合するだけですんだわ」
「新種ではない、っちゅうことですか」
「そういうこと。……でもあの羽根、綺麗だったわね。どうせもう要らないものでしょうし、私が貰っちゃおうかしら」
 くすくすと笑いながら、笹垣。
「──だが、嫌な予感がするんだな?」
 ぴたりと笑い声が止まる。笹垣は探るような視線を芦屋に向けた。
 そのままどちらも動かない。ただ互いに相手を見据えたままで。
 ──ふぅ、と艶っぽい溜息が漏れた。
「そうなのよねぇ……」
 頭に手を当て、悩むような表情を作る。笹垣は意味もなく部屋の隅の観葉植物を眺めた。 緑色の若々しい葉が自分の生を誇示するように伸びている。──それも千切れば、二日で枯れる。
「……お前の予感が当たることくらい、知っている」
 腕を組み、目を伏せた芦屋が言う。
 芦屋の言う通り、笹垣の『予感』は必ずと言っていいほど当たってしまう。一種の超能力、超感覚とでも言えばいいのだろうか。ただそれは未来視と呼べるほど大それたものではなく、ただ良いか悪いかを察知できる程度のものではあったが。
 ──それでも彼女の『予感』がこれからの未来を示唆することには変わりない。
 もう一度、笹垣は溜息をついた。
「明確に見えないとはいえ……そうなる可能性があると分かるだけでも、ね」
「案ずる必要はあるまい」
 芦屋は言い放った。
「予感は予感だ。未来は変えれば問題ない」
「慰めてくれてるのかしら?」
 一転して笑みを浮かべた笹垣に、芦屋は鼻を鳴らして答える。
「お前に弱気になられたら俺達が動けん」
「あら、つれない人だこと」
 笹垣はくすくすと笑った。芦屋は憮然とした表情を崩さず、窓の外に目を向けた。相変わらず雨ばかりだ。
「さて、それはともかく」
 唐突に、横から高峰が口を挟んだ。
「『羽根』については分かりました。そいで、あたしらはどう動くべきなんですかな?」
「そうね……とりあえずあなたは任務を継続。それと──芦屋」
 呼ばれ、芦屋は窓の外に向けていた視線を戻す。
「あなたのほうは、率先して『羽根』の主との接触を図って。できることなら平和的に説得して、こっちまで連れてきてちょうだい」
「その平和的手段とやらが無理だったら?」
「力づくで」
 即答。
「了解した」
 ──刹那、芦屋の顔に浮かんだ小さな変化を、高峰は見逃さなかった。もう何度も見てきた、押し殺した獰猛な笑み。
「おやおや、楽しみですかな?」
「──とてもな」
 問うた高峰に、芦屋は楽しげに答えた。これも、いつも通り。
「ではあたしゃ先に行っとります。笹垣所長、二、三人お借りしますよ」
「どうぞ。今なら多分、田辺の班が暇だと思うから、そこから連れて行って」
「はいはい、了解しました」
 では、と頭を下げ、高峰は部屋を出た。
「──気を利かせたのかしらね」
 ふふ、と笹垣が声に出して笑う。
「余計なお世話だ」
「相変わらずつれない人。──だから、好きなんだけど」
 す、と自然な動作で立ち上がり、笹垣は芦屋の頬に手を伸ばした。芦屋はまったく動かず、ただこちらを見つめている笹垣の瞳を、同じように見返している。
「──やめておけ」
 十秒ほど経過したところで、芦屋は笹垣の手を取り、下ろさせた。
「俺との間にそういった関係は成り立たん。率直に言えば、不毛だ」
「それでも好きなんだから、いいじゃないの、別に」
 笹垣の顔から一瞬、『大人』が消え去る。少女じみた無邪気な微笑みを浮かべて、ただ、言いたいことを言うように。
「──ま、この件が終わったらコーヒーでも淹れてあげるわ。しかも私が豆から挽いて直々にね。どう?」
「……楽しみにしておこう」
 言いながら芦屋は背を向け、部屋を出た。
「さて──」
 廊下を歩きながら、口の中で呟く。
「相手は唐土もろこし生まれ、か。なら、こちらもそれ相応の得物で挑んでやらねばな」
 口元に笑みを浮かべ、硬質な足音を引き連れて芦屋は廊下の奥に消えた。


         §


 ぎしり、という軋みで目を覚ます。
 いつもはそれで終わる。だが何故か今日は違った。
 かちり、という音で脳が覚醒する。
 つまりはそれが変化だ。本当に何故だか分からないが。
 きいぃ、という音で注意を向ける。
 歩み寄る気配。それが誰かなど、目を開かなくても分かっていた。
 そして気配はベッドの近くで足を止めた。晶は今ベッドに横になっている。横向きに寝て顔を壁に向けているため、結果その気配には背を向けていることになる。無防備極まりない体勢だ。まぁ、横たわっている以上あまり変わりはないのだろうが。
「……それで何か用? 桐花」
 びくりと桐花が身を竦ませるのが分かる。普段の冷静すぎる彼女とのギャップが面白くて、晶は思わず小さく吹き出してしまった。
 どうやら桐花は晶が目覚めたことに驚いたらしいが、その原因は桐花自身にある。彼女自身は気づかれていないつもりのようだが、桐花は時々、夜遅くに彼の部屋の前にやってきては一〇分間ほど立ち尽くし、そして部屋に戻るという妙な習慣があった。ちなみにそのうち三回に一回は部屋の中にまで入ってくる。もちろん晶は寝たふりをしてやり過ごす。
 そんなことを何年間もの間繰り返されていては、嫌でも敏感になるというものだ。
「というかね」
 よっこいしょ、と身を起こし、ベッドの上にあぐらをかいて座る。桐花はまだ固まったままだ。
「いくら兄妹とはいえ、年頃の少女が年頃の青少年の部屋に入り込むというのはどうかと思うけど」
 それでようやく正気に戻ったようで、すぐさま桐花は切り返してきた。
「そういうつもりじゃありません。無論別の用件があるからですっ」
 暗くてよく分からないが、晶には、桐花の顔が少し赤くなっているように見えた。
「それで、その用件ってのは?」
「──言うまでもないでしょう」
 さきほどまでの照れはどこへやら、一瞬で桐花の目が剣呑な光を宿す。気の弱い人間なら身を竦ませるほどに鋭い眼光。しかし晶は気圧される様子もなく、溜息をついて桐花を見据えた。このやりとりにも剣呑な瞳にも、もう慣れている。
「だから本当に忘れちゃったんだってば」
「嘘」
「何でそう思う?」
「ただの勘です」
「勘ってね、お前。そんなもんで判断されたんじゃたまったもんじゃないんだけど」
「本当に忘れられているのならこっちこそたまったもんじゃありませんっ」
 口をへの字に曲げ、桐花は言った。どうやら相当怒っているようだ。晶はやれやれと肩を竦める。
 長丁場になると思ったのか、桐花は晶の勉強机から椅子を引っ張り出して、それに座った。
「で、憶えてるんですか、憶えてないんですか」
 その質問には答えずに、晶は別の言葉を紡ぐ。
「……かわいいよね、犬ってさ」
 食事前のニュースを示唆し、晶は言った。
 思惑に違わず、桐花が反応を見せる。傍目には分からないが、眉がぴくりと痙攣するように動いた。
「お兄ちゃんには、関係ありません」
「そんなことはないと思うけどね。僕と桐花は兄妹なんだから、少なくとも『親族』という関係で表される。なら、僕が関係ないとは言えないでしょ?」
「屁理屈です、それは」
 更に怒りを込めた口調で、桐花は反論してきた。
「……それに、私とあの殺された犬自体は何の関係もありません。だからお兄ちゃんとも、何の関係もありません」
「じゃあ犬以外の何かと関係があるってことか」
「そうじゃなくて、別に関係とかそういったものは何も──」
「残念ながら桐花、お前は一つミスってるよ」
 少しばかり意地悪に微笑み、晶は言った。
「さっき言ったよね、お兄ちゃんに『は』関係ないって。つまり僕になくとも、桐花にはあるということじゃないかな、それは」
 ようやく気づいたようで、桐花ははっとした表情を見せ、そしてすぐ俯いて唇を噛んだ。自らの失態を悔いているようだった。
「ま、そういうことだから。無関係とは、残念ながら言えないよ」
「……そういう言い方は、ずるいです」
 屁理屈にしか思えません、と桐花は呟く。
「さて、僕との関係も立証されたところで、一体何がどうなっているのか話してもらえないかな」
「──それとこれとは話が別です」
 素早く反応し、即座に切り返す。
「遺憾ですが、関係については認めます。けど、それは事実を話す十分条件たりえません。お兄ちゃんは私という媒体を通じてそれと関係しているのですから、当然私の方が深い部分に触れています。逆に言えばお兄ちゃんは関係してはいてもそれは浅いものであり、私ほど情報を有する権限を持っていないということにも繋がります。以上の理由から、お兄ちゃんに教える事情を理由はありません」
 一気に捲くし立てられて、晶は少し仰け反った。気圧されたわけではないが、とりあえず、桐花がどうしても話したくないという気持ちは分かった。
「つまり、事情を話す気はない、と」
「そういうことです」
 にべもなく頷き、桐花は椅子から立ち上がった。
「ではおやすみなさい。夜分遅くにすいませんでした、お兄ちゃん」
「おやすみー」
 気になるが、話してくれないなら仕方がない。桐花が部屋を出てドアを閉めるのも待たず、晶はさっさと横になった。
 程なくしてまどろみがやってきて、彼はすぐにぐっすりと眠ってしまった。

 途中から論点がずらされていたことに桐花が気づいたのは、次の日の朝だった。


         §


 さてどうしよう、と彼女は悩んだ。
 さすがにまずかった。腹が減ったとはいえ、後先考えず目に付いた犬猫を喰い、それをそのまま放置していたのは問題だった。しかもそれを何回も繰り返してしまっては、その分騒ぎも大きくなるというものだ。せめて連れ去ってから喰うべきだったか。そうすれば単なる行方不明程度で片付けられたかもしれない。
 それに自分の姿は、いささか目立ちすぎる。目撃者など出たりでもしたら、もっと騒ぎが大きくなってしまう。それは当然彼女にとって望まざる状況であった。
 もっとも、これよって自分の存在をアレに示唆することはできただろう。アレを誘い出すこともせねばならなかったのだが、図らずもその必要はなくなった。……それでも、これ以上騒ぎが大きくなり、町を巡回警備する人間などが出てきては、今後自分の動きが制限される怖れがある。それだけは避けたかった。
 仕方なく、彼女はこうして自分の足で夜の住宅街を徘徊している。
 裸足である。それは無論履くものがないからだが、まさか盗むわけにもいかなかった。自分の行動のせいで町全体が過敏になっている。できるだけ厄介は避けなければならない。
 しかし、こうしてぺたぺたと人間らしく歩くのも彼女にとってはわずらわしかった。とうに日付は変わっている。一度も人は見かけていない。視線も感じない。少しくらいなら、と彼女は思い立ち、とん、と地を蹴った。
 重力を感じさせない動きで彼女は電柱の上に降り立った。周囲を見渡す。飼い犬は見つかりこそすれ、野良犬や野良猫はとんと見当たらない。或いは彼らも、自分の行動に恐怖し、どこかに隠れているのかもしれなかった。
 しかしいい加減空腹だった。今彼女は夜しか食事できない状況にあるため、一度逃せば丸一日以上何も腹に入れないことになる。それはどうにも嫌だった。やはり、どこか手近な飼い犬でも──
 ──ふと、遠くに彼女はそれを見つけた。
 無機質な箱の間の、小さな林。奇妙な形をした木や金属などの塊が間隔を置いて配置してあった。
 何のことはない。それはマンションの隣に建てられた児童公園だった。
 あそこなら、犬猫が隠れる場所もあるし、同時に人間の食い残しが捨ててあるから彼らも食べ物には困らない──少なくとも自分が彼らなら、あの場所に隠れる。
 彼女はそう目算し、電柱から飛び降りた。
 公園への道のりは記憶した。再び彼女は地を蹴り、しかし今度はほぼ水平に跳んだ。とんっ、とんっ、とリズミカルにアスファルトを蹴り、曇り空の下、公園への道のりを歩く。
 肩で切り揃えた朱色の髪がふわふわとなびき、翡翠色の単の着物の裾がたなびく。
 ──いた。
 公園の敷地内に踏み込むのと同時に、彼女は猫を見つけた。どうやらその猫も自分同様腹が減っているらしく、がさがさと熱心にゴミを漁っている。
 地を這うように低く跳ぶ。猫の姿が一瞬で大きくなる。迫る気配に気づいたのか、猫が振り向く──前にその細首に手を添え、捻った。ごりっ、と鈍い音がして頚骨が砕ける。
 ふと、視線が傍らに向いた。そこにはもう一匹猫がいた。今自分が仕留めたものより少しばかり小さい。親子、なのだろうか。
 刹那逡巡し、彼女はそれも仕留めることにした。犬より猫のほうが一回り小さい。複数食べておかないとすぐ腹が減ってしまう。それに飼われていない分、肉付きも少々悪い。
 びくりと身を竦ませる暇も与えず、跳んで、折った。音は先の猫より少し軽い。
 こんなものでいいだろう。彼女は折った手を猫から放さず、そのまま持つ。夜目には、ただ普通に、生きた猫を持っているように見えるはずである。
 できればもう一、二匹欲しかったが、もうここにはいないようだった。
 人間の身体は不便だ。つくづく、彼女はそう思った。
「喰った後は、動かぬが吉か」
 独り、呟く。それほど高くない女性の声。
 くずかごの近くに、何も入っていないビニール袋を見つけた。一匹目を仕留めたとき落ちたのだろうか。
 猫を一瞥する。首は百合の花のようにごろりと垂れている。彼女はビニール袋を拾い上げ、その中に無造作に猫二匹を突っ込んだ。行きに会わなかったとはいえ、帰り道で人に会わないとも限らない。それを考慮してのことだった。
 そして彼女は公園の敷地を抜け、もと来た道を引き返し始めた。
 少し急ぎ足だった。時間が経てば経つほど、生肉は不味くなる。別に喰えるなら文句は言わないつもりだが、できるだけ美味いほうがいいに決まっている。
 たんたんと跳びながら、三番目のT字架を通り過ぎ────足を止めた。
 気配が近寄ってくる。──どうやら出くわしてしまったらしい。彼女は小さく嘆息し、普通に歩き始めた。
 気配との距離は三〇メートルほど。街灯の光は弱い。気づかれたか気づかれていないか、微妙な距離だった。途中曲がり角があればよかったが、残念ながらない。かといって先程のT字路まで後退して曲がるのも、向こうからこちらが見えているとすれば不自然に写ろう。このまま塀を飛び越えて離れてもいいかと思ったが、そう思っているうちに距離は二〇に縮んだ。
 普通にすれ違うしかない。だがそれは、少々問題がある。
 何しろ、こんな夜分遅く着物姿の女性が裸足にビニール袋という出で立ちで歩いていては、さすがに不審に思われるだろう。
 既に距離は一〇に縮まった。もうお互い相手の姿がはっきりと見えているはずだ。
 気配の正体は男だった。身長は一八〇センチといったところか。自分と同じく髪を肩で切り揃えている。髪も瞳も色は黒。真っ黒なスーツとあいまって、とても似合っていた。ポケットの中に手を突っ込み、黒い靴で歩いてくる。
 距離が縮まる。六、五、四、三、二──
 横に並んだ時、彼女は思わず安堵した。──大丈夫だったようだ。

 ──夜道を歩く。残念ながら月は見えないが、こうして夜風の中を歩くというのも、中々風情がある。そう、芦屋は思った。
 とはいえ本来の目的は忘れない。あくまで自分は、上司から課せられた任務を遂行しにきたのである。
 ゆっくりと歩きながら、五番目の十字路を通り過ぎ────足を止めた。
 気配が近寄ってくる。──感じられる『質』からして、どうやら探していた目標のようだ。芦屋は止めた足を再び動かし始めた。
 あくまで普通に歩く。不信感を抱かせてはいけない。一応、説得を前提として接触するのだから。一応。
 二〇メートルに近づいたところで、芦屋は肉眼でそれを捉えた。
 気配の正体は、予想していた通り女だった。身長は一六二センチ程度。瞳は氷のように冷たい水色。自分と同じく髪を肩で切り揃えられた髪は朱を帯びている。朱色の帯と同様、翡翠色の着物と相反するようなその色彩は、とても美しかった。右手にビニール袋を下げ、ただ正面だけを見据えて歩いてくる。
 既に距離は一〇に縮まった。向こうにも、こちらの姿がはっきりと見えているはずだ。
 更に距離が縮まる。六、五、四、三、二──
 そして、並んだ。──無理だと、思った。

 空気が爆ぜた。

 〇が八になった。彼女は腰を落とし、男を見据える。男もポケットから手を出し、彼女を見据えていた。
 ──そう、大丈夫だったようだ。
 ざわりと血が昂ぶるのを、彼女は自覚した。
 初めから、不審に思われても何の問題もなかったのだ。
 この男も自分と同類。少なくともヒトとは本来相容れぬ存在であるのだから──!

 〇が八になった。芦屋はポケットから手を出し、右手を前に向けていた。女は腰を落とし、鋭い眼光でこちらを見据えている。
 ──説得はやはり、無理なようだった。
 思わず、口元に獰猛な笑みが広がる。
 初めから、説得など無理だったのだ。それは笹垣も分かっていたはずだった。
 そしてどのような行動を取ろうとも、自分の道は全て戦いに繋がるのだ──!

 闇夜の道に、ただ二人。
 かたや女で、かたや男。
 だがそれは決してロマンチックな雰囲気などではなく、二人の間の空気は、今にも引き裂かれそうなほどに張り詰めていた。間に第三者が通ろうものなら、ものの一秒と経たず見事な挽肉ができてしまうだろう。──比喩ではなく、現実に。
 何の変哲もない住宅街である。道路の横の、塀の向こうの家々で、人々はまったく普通の生活を送り、今は皆、夢の中といったところだろう。
 その中で、この空間だけが異質だった。
 逢魔ヶ辻。まさにそれだ。
 先の二人の交差は、まさに刹那だった。カメラのスローモーションですら、すれ違ったはずの二人が、次のコマでは一気に間合いを取ったように見えるだろう。
 二人の右手の甲には、未だに振動の感触が残っていた。交差した瞬間、二人はまったく同じ動き、同じタイミングで、互いに裏拳を打ち込んでいた。
 ぎしっ、と何かが軋んだ。音源は芦屋の右手だった。芦屋は指を手刀の形に揃え、腰を落とし、右足を後ろに引き、左手は握り、脇を締める。
 音が鳴るほどにすぼめられた彼の右手は、明らかに『斬る』気配を見せている。
「──警告だ。俺に下れ。嫌なら無理矢理連れていく」
 極めて簡潔に、構えたまま芦屋が言う。
「──どちらも拒否する」
 女も簡潔に答える。
「それに、最初から警告する気などあるまいに」
「見透かされていたか」
「当たり前だ」
 嘲るように女は言った。
「すれ違うまで分からなかったがな。お前の纏う空気は、殺す者のそれだ。最初から殺す気だったのだろう?」
「いや、違う。殺すつもりはない。半殺しにはさせてもらう」
「一割たりとも、殺される気はないな」
 嘲るように女が鼻を鳴らす。
 ふと、女は手にまだビニール袋をぶら下げていたことに気づき、とりあえずそれを思い切り高く上に放り投げた。
 それが合図だった。
 踏み込む。八が〇に戻る。白刃の鋭さを以て突き出された芦屋の右手が、しかし女の頭上を通り過ぎ虚しく空を貫く。懐に潜り込んだ女の拳が打ち込まれる。芦屋はそれを左手で払い、右足を軸に身を捻って反転、右肘を打ち込んだ。が、それも空を切る。女の姿は、既に七メートル向こうに跳んでいた。
 ──はやい。
 密かに嘆息しつつ、芦屋は踏み込む。両手とも刃と化していた。
 再び女は跳躍する。高く後方に。芦屋は先程より力を込め、地を蹴った。地面から一二メートル上で、追いついた。左手を突き出すが、身を捻ってそれは躱された。そこにすかさず右手による横薙ぎの一撃。宙に浮いた状態での姿勢制御は、いかに彼女が空中戦に慣れていようと難しいものであった。まして今、彼女の身体は完全な状態ではない。受け止めるしかなかった。
 左腕を盾に受け止めたその一撃は、それほど重いものでは──少なくとも受け止めた腕ごと肋骨まで叩き折られるほど強烈では──なかった。
(……ひびが入ったか)
 内心舌打ちしつつ、そのまま吹っ飛ばされていく。くるりと空中で宙返りし、迫っていた電柱に足をつき、再び、更に高く彼女は跳んだ。──否、飛んだ。
 芦屋がそれを追い、塀を蹴って女に迫る。女は何を思ったのか、上昇しながら右手を振るった。明らかに、攻撃の届く範囲ではない。
 しかし芦屋は瞬時にそれを察知し、紡いだ。
蒐苫しゅうせん──!」
 紡がれる単語に応じ、きん、と澄んだ音を奏で、芦屋の周囲に光の円が現れた。半径一メートルほどの円が、星の軌道を描いた図のように芦屋を取り囲んだ。
 ガカッ、と見えない何かが“蒐苫”と呼ばれた円に当たり、砕け散った。しかしそれは口火に過ぎない。次いで、それこそ間隙を与えぬ勢いで不可視のそれが雨霰と降り注ぐ。
 びき、と“蒐苫”に亀裂が入る。半瞬の隙もなく次の弾丸が来る前に、芦屋は舌打ちと共に言葉を紡いだ。
葉反はそり!」
 一瞬、青白い半透明な球体が芦屋を包み、そして消えた。直後、“蒐苫”が砕け、夜の空に融けた。
 女が更に手を振るう。驚いたことに、その身体はまだ上昇中だった。
 芦屋は既に女が何を弾丸としているかを看破していた。
 風を操る。それがこの女の──否、この女の“種族”の能力なのだ。
 空気の弾丸が、先程よりも量を増して芦屋に襲い掛かり──全て別の方向に逸れ、やがて消失した。
 女は目を剥いた。受け止められることはあっても、まさかその軌道を捻じ曲げられるとまでは思っていなかったらしい。
 芦屋の紡いだ“蒐苫”と“葉反”は、結界と呼ばれるものだ。その能力はそれぞれ、“蒐苫”は攻撃を受け止めるもの、“葉反”は攻撃を受け流すものである。つまり芦屋は、“葉反”によって空気の弾丸を別方向に逸らしたのだ。
 女は驚いた顔を見せたものの、すぐに表情を引き締め、風を操り急速に遠ざかった。
 逃さん、と口の中だけで呟き、芦屋はそれを踏んで、跳んだ。
 今、芦屋は空中にいる。踏めるものなど、どこにもありはしない。
 ──なら彼が踏んだのは一体何だと言うのか。その思考が、女の反応を鈍らせた。
 気づけば眼前にまで芦屋が迫っていた。女は反射的に両手を突き出し、刃状に練った風を解き放った。
「ちっ──!」
 芦屋は舌打ちした。
“葉反”には一つの欠点がある。“葉反”が逸らせるのはあくまで間接攻撃、しかも物質的な攻撃のみ──風の弾丸は空気という『物質』を練ったものだから効果があった──であり、直接的な接触は素通りしてしまうのだ。
 そして今、女の手はその結界内で風を解き放った。
 時として、計算され尽くした行動より、幼稚でがむしゃらでただ反射的であるだけの行動が恐ろしい場合もある。芦屋はこれまで何度もそれを経験してきた。そして、今も。
 芦屋は一瞬で“葉反”を解いた。あのまま“葉反”で我が身を包んでいたら、結界内で風が暴れ狂い、一瞬で身が切り刻まれる。そうなれば当然肉体を失い──復元にかなりの時間がかかってしまう。
 左手を前に突き出し、言葉を紡ぐ必要もない簡易結界を張る。発音する時間はない。風は既に暴れ始め、自分の身体を切り刻まんと迫っている。
 風刃と封陣が衝突した。──負けたのは封陣のほうだった。
「ぐぅ──ッ!」
 押し殺した呻き。素早く痛覚を遮断する。芦屋の腕は、丁度肘辺りまでがなくなっていた。文字通り微塵切りにされ、下碗部は最早塵の大きさで空気に舞っている。
 女はその隙に逃げ出す。自由落下に加え巻き起こした風で推進力を発生させ、しかし音もなく民家の屋根を蹴り、とーん、と軽く跳んだ。
 丁度そこに、白いビニール袋が落ちてくる。女はそれをキャッチし、どこへともなくそのまま屋根を跳びつたって去っていった。
 ──ほんの十数秒。ビニール袋を投げて落ちてくるまでの短い攻防。
 その間に得たものは、今後動くことに役立つだろう。芦屋はそう言い聞かせて、自分となくなった左腕とを慰めた。
 切り口は筋肉と神経がぐちゃぐちゃになっていて、見るも無残なものである。しかしどういうわけか、血は一滴も流れ出てはいない。
 復元までに十五時間、完全に動くようになるまでには更に六時間を要する。この状態で追いかけて、殺さずに連れ帰るというのには、少々無理があった。
「今日はここまで、か」
 手近な電柱の頂点に降り立ち、芦屋は呟く。そして、小さく忍び笑いを漏らした。
 密かに彼は悦んでいた。自分の左腕を奪った相手など、実に久し振りだったからだ。殺さずに連れ帰れ、という命令が、この時ばかりは恨めしくさえ思えた。
 しかし命令は命令である。いかな芦屋の実力が強大であろうと、属するものがある以上、それに自分は従わねばならない。それが、彼と笹垣の取引であるのだから。
 ちっ、と悔しげに──しかしこの上なく楽しそうに芦屋は舌打ちし、彼もまた、夜の空気に融けていった。


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