きょうでおわかれです、と彼女は言った。
 そう、と素っ気なく僕は答えた。



       B. 剣閃結界/Sword world



 ことり、と静かにカップが机の上に置かれる。
「ありがとう」
 置かれたそれを早速持ち上げ、笹垣は目の前の少女を労った。
「いえいえ、ご主人様の上司は私の上司です。お礼なんて、もったいないですよ」
 にこにこと笑いながら、とんぼ眼鏡をかけた黒髪の少女は言った。長い髪は下の方をレモン色のリボンで結ばれ、少女の動きに合わせて左右に揺れる。その様子に、笹垣は思わず吹き出した。
「笹垣様? どうなされたのですか?」
「何だか、そんな格好で言われると様になりすぎてて、おかしくて」
 怪訝そうに視線を向けてきた少女に、笹垣はくつくつと苦笑しながら手を振った。
 確かに少女の格好は、そうそうお目にかかれるものではない。
 少女の着衣は、黒いワンピースの上にエプロンという、いわゆるメイドサーヴァントの格好である。それが本物の召使いさながらに慇懃にコーヒーを運んできたのだ。笹垣が吹き出すのも無理はない。
「──ところで芦屋はどこに行ったの? あなたを置いていくこともないのに」
 ひとしきり笑って、笹垣は少女に問うた。それでも言葉の端々に笑みが浮かんでいる。
「ご主人様なら、お仕事を継続なされていますよ」
「あなたがいなくて大丈夫なの?」
「はい。ご主人様曰く、あの程度の相手なら何もなくても勝てるし、それ以前に接触しないだろう、と」
「大した自信ね。彼らしいというか、何と言うか……」ふと、言葉を区切り、「接触しない、というのは?」
「どうやらあちらの方が上手く気配を隠されているようで。ご主人様でも補足できないようです。中々お強い方のようですね」
「なら尚更、あなたがいるべきじゃないのかしら」
「そういうわけでもないんですよ」少女は苦笑を見せる。「戦うことは得意なのですが、それ以外はどうにも、不得手なんです。……いえ、できないわけではないのですけど、何と言いましょうか。私は夜しか使い物になりませんから、不便ですし」
 憂鬱に、少女は吐息する。彼女としては、主人と慕ってやまない芦屋の役に立てないことが口惜しいようだが、そんなことはないと笹垣は思った。
「気にすることはないわよ。あなたは充分芦屋の役に立ってるもの」
 カップの中のコーヒーを飲み干し、少女に差し出しながら笹垣は励ます。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
 それでもまだいくらか暗い面持ちのまま、少女はカップを受け取った。
「おかわりはいかがですか?」
「ん、今はいいわ」
 そうですか、と少女は踵を返し、カップを片付けに行こうとする。
「笹垣様」
 途中で少女は足を止め、彼女の名を呼んだ。
「ご主人様は……」
 言い淀む。笹垣は静かに、その続きを待った。
「ご主人様は、渡しませんから」
「ええ。私も」
 挑戦的な笑みを浮かべ、笹垣は言い放った。いつものやりとり。
 不意に、少女が振り返る。その顔には、笹垣と同じく不敵な笑みが浮かんでいた。
「では、失礼します」
 慇懃に頭を下げて、少女は退室した。
「──命短し恋せよ乙女、ですかな」
 入れ違いに入ってきた高峰は、開口一番に言った。
「盗み聞きは許さないわよ? 高峰」
 そう言う割に、笹垣は笑顔を浮かべている。高峰もそれに笑みを返す。
「それで何の用かしら。あなたはあの二人を張ってるはずだけど」
「部下に任せてちょっと一服。いい加減、あたしもトシですからなぁ」
 はっはっは、と笑い、高峰は頭を掻いた。
「まぁそれはともかく、ちょっとした野暮用と……ちと気になることがありましてな、それで戻ってきた次第ですわ」
 どっこらしょ、とソファに座り、高峰は話し始めた。
「少々、不可解な点がありましてな」
「不可解?」
 問い返す笹垣に、高峰は頷きを返した。
「芦屋さんとは逐一連絡取り合ってんですがね、どうにも、あちらさんの動きがちと変でしてな。数日前、張ってる二人の女の子の方……桐花さんでしたっけ? それに、あちらさん、気配断つのやめて桐花さんに自分の存在を知らしめたことはもう言いましたな。ところがですよ、その日から毎晩桐花さん外出歩いてんですが、その度にわざと気配を見せているようでしてな。毎回毎回芦屋さんが追いかけるんですが、気づかれると分かるとすぐに逃げ出してしまうようで」
 思案顔で、高峰は自分の顎をさする。
「おそらく先の小動物殺害の件は、桐花さんをおびき出すためのものだったんでしょうな。それで、のこのことやってきた桐花さんを後ろからばっさり、というのが常套手段なのでしょうけど……何故か、自分の存在を教えちゃったんですよなぁ」
「……あちらにも、あちらなりの事情があるということかしら」
 顎に手を添え、遠くを見るような目で笹垣は思索に耽る。
「あくまで正々堂々戦うつもりなのか、挑発してるだけなのか……一向に戦おうとする気配がない以上、挑発なのかしらね」
 首を傾げ、ふぅ、と溜息一つ。
「どちらにせよ、本人に訊かないことには分からないわね」
「ですなぁ」
 相槌を打って、高峰は立ち上がる。
「用件はそれだけです。では、そろそろあたしも現場に戻りますわ」
 ぺこりと頭を下げ、高峰もまた退室する。
「──命短し、か」
 先程の高峰の言葉を、口の中で反芻する。
「短いのは、私だけじゃない──」
 眉根を寄せ、悔しそうに呟いた。それを聞きとめるコーヒーも、今はない。


         §


 じゃり、と音が鳴る。新品の靴が、石畳と擦れた音。
 目の前には、石でできた大きな鳥居がそびえ立つ。かけられた注連縄は朽ちかけで、ついているはずの四手はない。
 注連縄は、聖域と人界を区別する境界線だ。故に、朽ちてはいけないものである。朽ちてしまったら、それは向こうの領域がこちらに浸透してしまうことになるのだから。
「……八年前も、こうだったっけ」
 晶は首を傾げた。記憶の中では、この注連縄はもう少しマシなようだった。それでも、明らかに八年以上放置されておきながらまだ腐り落ちないというのは、ある意味勲章ものだ。そう勝手に認定する。
 じゃりじゃりと石畳を歩く。不思議なことに、石畳にはまったく苔が生えていない。石の材質のせいなのだろうか。
 短い階段を上れば、目の前に古ぼけた社がある。社の小さな鐘は僅かな光沢すら放たない。それくらい、古ぼけた神社だった。
 この神社は、一年に一度あるちょっとした祭祀の時以外使われることはなく、周囲に人家もないためか、掃除されることも滅多にない。故に、転校当初、まだ友達の少なかった晶にとっては、一人で遊ぶ格好の場所だった。
「……友達なんていなかったもんなぁ」
 ひとり、呟く。応じる者は、勿論いない。
 今でも時々ここに来て、独り物思いに耽ることがある。我ながら暗い、と晶は苦笑した。
 適当な石に腰掛ける。伝わってくるひんやりとした冷たさが心地良い。
 さて、と独り呟き、ぼんやりと物思いに耽る。
 桐花が夜中に出歩き始めてからはや数日。今日が土曜で休みであったせいか、昨日は相当遅くまで出歩いていたようだった。相変わらず何をしているのか分からないが、朝見るたび、腕とかに絆創膏が貼られていたりする。晶としては、本当に心配だった。おそらく今日も明日も、遅くまで家を出ているのだろう。月曜日は学校の創立記念日で休みであり、今日はその三連休の一日目だった。
 ふと、空を見上げる。相変わらずの曇り空。雨こそ降ってはいないものの、晴れる気配はまったくない。
 似ているな、と思う。あの日も、同じような天気だった。
 桐花と初めて出会った、八年前の六月も──

 風はなく、雨も降らず、ただ雲が在るばかり。
 六月の朝の空気は湿っていて、泣き出しそうな雨雲は、相変わらず空を覆っている。
 今日は日曜日。遊ぶ相手も場所もなく、いつも通り僕はそこに行く。
 子供の足で約一〇分。人気のない竹林。そこだけが別世界である場所。
 朽ちかけた注連縄の向こう。古ぼけた社と苔むした狛犬。
 その狭い広場が僕の遊び場。
 その裏。誰もいない。何もない。ただ大きな木があるだけの場所。
 そこは僕の秘密基地だった。ただ一人、たった一人の秘密基地。
 僕はそこで毎日遊んだ。飽きもせず。いつかできる友達を連れてくることを夢見て。
 そしてその場所に案内した最初のひとが、彼女だったという、それだけの話──

「やっぱりここにいたんですか、お兄ちゃん」
 映像が途切れ、直後思考が霞む。そして徐々にそれが晴れ渡っていく。
「……もしかして、寝てた?」
「ぐっすりと」
 晶は小さく吐息した。桐花に寝顔を見られたことが、何だか凄く悔しい。
「……八年、か」
 さっき見た昔の夢を思い出し、晶は小さく呟いた。
「? 何か言いましたか?」
「いや」頭を振る。「何でもないよ」
 立ち上がり、うーんと背伸びする。ぼきぼきと景気良く背骨が鳴った。
「今何時?」
「もう七時近いです。だから呼びに来たんですけど──随分、ゆっくりお休みだったみたいですね」
 げ、と思わず呻く。寝すぎだ。桐花の突き刺さるような視線が痛い。
 と、晶の鼻の頭にぽつりと冷たい雫が落ちてきた。雨だ、と無意識に呟いた。
 段々と激しさを増していくそれから逃げるように、二人は社の軒下に潜り込んだ。
「まったく」少しばかり濡れた髪を手櫛で梳かしながら、桐花はもう一度晶を睨んだ。「お兄ちゃんを迎えに来たせいで、私まで濡れちゃったじゃないですか」
 それはわざわざ迎えに来てくれたお前が悪い。そう思ったが、口には出さないでおく。
「にわか雨だといいんだけど……」
 空を仰ぎ、呟く。残念ながら空は灰一色に統一されていて、雨は長く続きそうだった。
「どうする桐花。いっそ突っ切って──」
 ふと視線を向けた桐花は、目を見開いて一点を凝視していた。
 視線の先には数時間前晶が上った石段。──そしてそれを上りきったところに佇む、一人の美しい女性──
 身震いが、した。
 背中を駆け上がる違和感。明らかに人に在らざる色彩。そして形状。
 翡翠の着物。朱色の髪と帯。そして水色の、瞳。袖から出た手は翼で、裾から出た足は爪。──少なくともその部分は、完全にヒトではない。
 晶はそれに見覚えがある。忘れられないほど、強烈な思い出として。

 ──だから、ソレが跳んできても、冷静に対処することができたのだろう。

 反射的に、晶は桐花を押し倒すようにして地面に飛び込んだ。頭上すれすれを風が薙ぐ。視界の端に、半分ほど抉り取られた柱が映った。何がそうしたのかは分からない。しかし錯覚でなければ、間違いなく見えない何かが柱をごっそりと抉っていった。
「退いてください──っ!」
 切羽詰まった桐花の声。転がるようにして晶の下から抜け出した桐花は、素早く狛犬の陰に隠れた。直後それが砕け散る。その向こうに桐花はいない。
 斬音。女性の横を、刃そのものである桐花がすり抜けた。通り抜けた背後に向けて翼が振るわれる。だがやはり桐花は、もうそこにはいない。
 目で追えない。いや、追うことはできても、文字通り目にも止まらぬ速さで、二人は攻防を繰り広げていた。
 気づけば、桐花は三〇メートルの上空にいた。腕を薙ぐ。半瞬遅れて、石畳が、地面が抉れ弾け跳んだ。飛び散った泥がびちびちと顔を打つ。
 圧縮された空気の流れが見える。細く長い円錐が、同時に二人の傍らに現れる。──二人が風を操っていることを、何故か晶は即座に理解していた。
 不規則な軌道を描き、槍が飛び交った。
 半分が中間でぶつかり、相殺する。残り半分は互いの方に抜けた。
 鳥の女性は地を蹴ってそれを回避する。だが、桐花は──
「桐花!」
 空中での方向転換は上手くいかない。いくら風を、空気を操れると言っても、多分、間に合わない──
 気づけば、空気が砕ける音が聞こえていた。
 晶は自分の視界が広がっていることに気づいた。何のことはない。今まで寝転がっていたのが、起き上がっただけのこと。
 ──だけど僕は、いつの間に起き上がった?
 記憶の糸を手繰り寄せれば、そこには奇妙なものが見えた。
 文字通り、身体全体で跳ね上がるように起きる自分。その手に掴まれた泥と砂利。流れ薙がれる腕。明らかに音速を超えていた泥と砂利は、桐花に迫る空気の槍を残らず貫いて、雨の中はるか遠くに消えていった。
 ──明らかにヒトを超えた、動き。
 気づけば、離れた場所から女性がこちらを睨んでいた。何か、得体の知れないものを見るような視線。だがそれは、晶の眼前に、背を向けたまま降りてきた桐花によって妨げられた。
「何を、したんですか」
 背中越しに、桐花は言った。
「何って、見てた通りだよ。僕の投げた砂利が、あの人の空気の槍を貫いた」
「何で……そんなもの、見えたんですか」
 困惑しきった桐花の声。訊きたいのはこっちだよ、と晶は声に出さず呻いた。
「──面白い男だな、桐花」
 その時初めて、女は口を開いた。
 凛とした、透き通るような声。二〇メートルほど離れているにも関わらず、その声は雨を伝わり、晶の鼓膜に到達する。
「ヒトに紛れて如何様に成長したかと思えば……随分変わったな。昔はもっと愛想が良かったと思ったが」
「変わったのは、あなたも同じです。──だけど、もうどうせ関係のないことでしょう? 蓮花」
 酷く無感情に、桐花。
「私達はもう、他人同士です。今更過去など懐かしんだところで何の意味もない」
「懐かしんでなどいない」
 嘲るでもなくただ淡々と、桐花が蓮花と呼んだ女性は言う。
「ただ過去という情報を引き出しただけだ。お前を見て、ふと昔のお前が思い浮かんだ」
「それを、懐かしむと言うんです」
 そういうものか、と彼女は頷き、
「だが、それも終わりだ」
 それだけ言って、蓮花は腰を落とした。
「私を殺すんですね」
「無論。そのために、ここまで来たのだ。確認するまでもないだろう?」
「──桐花、一体どういうこと?」
 珍しく、晶は内心取り乱していた。わけの分からないことが、一度に何度も起こってしまったからだろう。喉がからからに渇いていて、発した言葉は早口だった。
 それでもそれを外に出さなかったのは、桐花がいたからだった。彼女の前でだけは、みっともない自分を晒したくない。ただの意地だった。
「……お兄ちゃんはさっさと帰ってください。これは私の問題です。──あなたには、関係ありませんから」
「な────」
 何てことを言うんだろう。一気に思考が冴え渡り、次いで憤りが流れ込んできた。これは私の問題? 僕には関係ない? そんなこと、あるものか。
 こうして対峙した以上、晶はもう既に問題の当事者であり、関係者である。しかし帰れと、桐花は言った。だがそれは晶の身を案じてのことだろう。晶にも、それくらいは分かっていた。だが──
「嫌だよ」
 晶ははっきりとそう口にしていた。
「──好きな女の子置いてくなんて、男のやることじゃない」
 晶の言葉に、一瞬、桐花は戸惑ったようだった。だけどそれもすぐに消え、桐花は押し黙った。
「…………関係ないと言ったのは、謝ります。けど今は、離れていてください」
 それだけ言って、桐花は腰を落とした。
 雨が降っていた。風が流れていた。時間は止まっていた。
 互いに見据えあう二人。ここでは晶は部外者でしかない。なんて、歯痒い。そう思った。ただここにいて、見守ることしかできない。何て無力で、頼りない自分。
 そして、
 どん、という轟音と共に、止まっていた時間が動き出した。
 しかし──桐花は動かず、蓮花は肉薄してこなかった。
 轟音が連続する。その度に、跳び上がった蓮花の身体は木の枝から枝へと飛び移り──木々の間に姿を消してしまった。
「いやぁ、危ないところでしたなぁ」
 妙に落ち着き払った声。その方向を振り向くと、柔和な笑みを浮かべた老爺が佇んでいた。林の中からがさがさと身を乗り出し、こちらに歩いて来る。その肩には、黒く長い金属の筒がぶら下げてあった。ライフルだ。おそらく、さっきの轟音の正体はそれなのだろう。
 その後ろから、もう一人別の男が姿を表した。こちらは随分若い。髪を肩で切り揃えた長身痩躯の男性。その男の目に、何故だか晶は恐怖を覚えた。
「高峰、俺はあっちを追う」
「お願いしますわ芦屋さん。ああくれぐれも、殺さないように」
 老爺──高峰の言葉に、芦屋は憮然とした表情を作った。
「相当信用がないのか、俺は」
 呟くように言い捨てて、芦屋は蓮花を追って地を蹴った。その姿もまた、木々の間に隠れすぐに見えなくなる。
「──何故、邪魔をしたんですか」
 剣呑な色を宿して、桐花が言った。
「あなた達が割って入らなければ、決着はついていたのに──」
「あなたの負け、というカタチで、ですかな?」
 にこりと微笑み、高峰は言った。桐花は悔しそうに唇を噛む。
「それともその傷で、勝つつもりだったとでも仰るのですかな?」
「──傷?」
 はっと気が付いて、晶は桐花の脇腹に目を向けた。さりげなく手で押さえているそこからは、じわりと赤い染みが滲んでいる。先程の攻防で負ってしまった傷だ。
「馬鹿、何で言わなかったんだ」
「言ったところで、どうなるわけでもありません」
 息一つ乱さず、平然と桐花は言った。だがその額には、びっしりと細かい汗が浮かんでいる。
「とりあえず応急処置しましょう。外の道路に車を止めとります。歩けますかな?」
 高峰の言葉に桐花は頷き、歩き出す。──と、その身体が唐突に傾いた。晶は慌ててそれを支え、桐花に肩を貸す。
「……すいません」
 やはり強がっていたらしい。その声は、思った以上に弱々しかった。
「馬鹿。こんな時ぐらい頼ってよ。じゃないと、立つ瀬がない」
 本当に、そう思う。
 桐花は俯いたまま、何も言わなかった。
 二人は高峰に先導されるまま、区切られた聖域を出た。
 後ろを振り返る。竹林の向こうに、忘れ去られた神社が見えた。
 銃声がしたのに、誰かが近寄ってくる気配はない。
 晶はふと、こんなことを考えた。あの神社にまだ神様がいるのなら、一体どんな気持ちで、ずっとあの場所にいるんだろうか、と。

 高峰の車──真っ黒なベンツだった──の中で、晶は彼から借りた救急セットで桐花に包帯を巻いていた。さすがに男である晶が服をたくし上げることに躊躇いを覚えたのか、桐花は抵抗したが、晶はお構いなしに服をめくった。
 生々しい傷痕。それほど深くはないとはいえ、すっぱりと切れた傷口からは、とめどなく血が溢れ出している。丁寧に血を拭き取り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。
「桐花、大丈夫?」
「大丈夫に……見えますか?」
 思わずほぅ、と吐息した。憎まれ口が叩ける分、まだ大丈夫だろう。
「手当ては済んだようですな。ではとりあえずコレで身体拭いてください。そのままだと、車内が汚れてしまいますからな」
 タオルが差し出される。言われてようやく、自分達が泥まみれだということに、二人は気づいた。先程蓮花の初撃を避けるため、地面に転がった時についたものだろう。
「包帯だけでは不安ですからな、とりあえずあたしらんとこに来てもらいますわ。詳しい話も聞きたいですし」
 言って、高峰はエンジンをかける。
「安全運転するつもりですが、痛かったら言ってくださいな。遅くします」
 ゆっくりと車体が滑り出した。雨の降りしきる中、黒い車が山の斜面を下りていく。
「どこに、行くんですか?」
「着けば分かりますよ。なぁに、それほど遠かないですから、心配しないでくださいな」
 バックミラーに映った顔は、笑っている。深く刻まれた皺が、それによって柔らかく曲がっていた。
「詳しい話は、とりあえず桐花さんの治療が終わってからですな」
 それで会話は終わった。後は三人とも終始無言のまま、車は走っていった。

「見えてきましたな。ほら、アレですわ」
 そう言って高峰が指差したのは、二つの白い建物だった。
 片方は、町の外れに位置する病院だ。そこそこの広さと設備を備え、どこそこの偉い人を手術したとか、医師のだれかれが不祥事を起こしたとか、そういった良くも悪くも浮いた噂のない、何の変哲もない病院。記憶が確かなら、唐高病院という名前だったはずだ。
 その隣の建物のことは、晶も知らない。ただ病院と同時に建てられていたことから、おそらくは病院の施設の一部なのだろうが……極端に窓の少なく、異様に白いその建造物は、見る者にどことなく不気味な印象を抱かせる。
 そしてそういった得体の知れない建物というものは、とにかく色々な噂が立てられる。秘密裏に人体実験が行なわれている、病院で死んだ人の遺体が保存されている、そういった他愛のない噂。
 しかし、案外噂は噂ではなかったのかもしれない。少なくとも真っ当な場所ではないだろう。晶はそう確信していた。
 三人を乗せた車は、その建造物の裏へと入り、ぱっくりと開いた地下への道に、飲み込まれていった。そこは薄暗く、ぼんやりと所々に光源がある程度だった。目が慣れてくるにつれて、そこが地下駐車場であることが分かる。
「さ、着きました」
 高峰は地上へのエレベーターに近いところに車を止め、出るように促した。
「大丈夫?」
「……平気です。大分、落ち着きました」
 意外にしっかりした声音で、桐花。意地を張っているわけでもなさそうである。
「そっか。じゃ、行こう」
 頷きを返し、桐花は車から降りた。
 エレベーターに乗る。高峰は二階のボタンを押し、扉を閉じた。
 ぶ──────ん……
 虫の羽音みたいな音が聞こえると同時に覚える、エレベーター特有の浮遊感。一〇秒ほどそれを感じて、浮遊感は終わった。
 ちーん、と音を立ててドアが開く。
 高峰の背中を追って、エレベーターを降り、右に曲がった。
「まずは医務室に行きましょうか。傷、診てもらっとったほうが良さそうですしな」
 そう言う高峰についていくと、ほどなくして『医務室』と書かれたプレートが貼られた部屋が見えた。ドアにはプレートが下げられていて、『在室中』と書かれている。
「柿崎センセ、おりますか?」
 ノックしながら、高峰は呼びかける。
「開いてるよ」
 聞こえた声は相当無愛想だった。
「じゃ、失礼します」
 ドアを開いた途端に漂う、つんと鼻をつく薬品の匂い。学校の保健室とあまり変わらない匂いだと、晶は思った。
「急患ですが、よろしいですかな?」
「別に構わんよ」
 返事をしたその女性は白衣を着ていた。多分医者なのだろう。だが長い髪を無造作に後ろで束ね、口に煙草を咥えるその様は、どう見ても医者のそれではない。
「お二人さん、紹介しますわ。こちらは柿崎葉澄はずみ先生。医務を担当しとります」
「よろしく」
 にこりともせず、柿崎。
「……怪我してんのは嬢ちゃんの方か。んじゃ早速手当てだ。話はその後」
 そう言っててきぱきと器具を取り出していく。
 はたとその手が止まった。そして柿崎は晶と高峰を見て、
「男衆は出てけ」
 ということで、二人は部屋を追い出された。

 十分ほどして、桐花が出てきた。頭を下げ、静かにドアを閉じようとした桐花を、待ってください、と高峰が止める。
「柿崎センセ、準備しといてくださいな。話にそんな時間はかからないでしょうから、なるべく早くお願いしますわ」
「うぃ、了解。じゃあ準備ができたら呼びに来る」
「お願いしときますわ」
 手をひらひらと振り、すぐさま柿崎は受話器を手にとった。
「では、行きましょう」
 ドアを閉め、高峰は歩き出した。準備とは一体何なのだろうと思ったが、多分訊かずともそのうち分かることなのだろう。そう思って、晶は黙って高峰の後に続いた。
 しばらく廊下を歩いて、高峰に通された部屋は、応接室のようだった。
「そいじゃ、どうぞ、座ってくださいな」
 言われるままに、晶と桐花は並んでソファに座った。高峰はテーブルを挟んで反対側のソファに座る。
「自己紹介がまだでしたな。あたしは高峰武夫と申します。よろしくお願いしますわ」
 会釈しながら差し出された名刺を受け取り、晶はそれに目を通した。本当に簡素な名刺で、彼の名前と、携帯電話の番号以外何も書かれてはいなかった。肩書きすらも。とりあえずそれをズボンのポケットに仕舞い、二人はそれぞれ自己紹介した。
 ちょうどそこで、一人の女性が部屋に入ってきた。テーブルの上に三人分のコーヒーと角砂糖、ミルクを置く。
 礼を言って、高峰は女性を下がらせた。女性はぺこりとお辞儀をして、ドアを閉めた。
「さて……何から話したものですかな」
 ふむ、と思案げに顎に手を当てる。
「そうですな……まずは、我々のことについてお話ししましょうかね」
 膝の上で指を絡めながら、彼は問うた。
「さて、お二人には我々がどのような人間に見えますかな?」
「…………MIBメン・イン・ブラックとか」
 ぽつりと、思ったことを口にしてみる。半分冗談で半分本気だった。
“黒服の男”──アメリカの都市伝説の一つである。未確認飛行物体──所謂UFOの発見現場などでよく見られるとされる、謎の集団のことだ。
「当たらずとも遠からず、ですな。確かにあたしらはそんなもんですし」
 感心したように、高峰は言う。
「言ってしまえば日本のそれですな。まぁ、我々は平安時代の『陰陽寮』の流れを汲んどるんですがね」
「陰陽寮?」
 問い返した桐花に、高峰ははい、と頷いた。
「陰陽師ぐらいは知っとるでしょう。その陰陽師達が属していた、れっきとした機関ですよ。……陰陽師、と聞くと妖しい術を使う、日本版の魔術師みたいな印象を受けるでしょうが、実際は少々違いましてな。陰陽寮は妖怪や魔物、魑魅魍魎──今では総称して怪異と呼ぶことにしとりますが、その怪異などへの対処だけでなく、暦の作成、気象や天文なども司っていました。あとは漏剋──水時計のことですな──を見て時間を知らせる係とか。大体のところそんな仕事でした」
 高峰は間を置き、息を整えた。
「しかし時代が移るにつれ、気象や天文などについては専門の人々が出てくるようになりました。そして怪異、つまるところ人間に理解できないモノが社会的に駆逐されていくようになると、同時にそれを封じ追い払う陰陽師達も、裏側に入っていくようになったんですよ。──そして現代まで、こうして社会の裏側でひっそりと、しかし確実に息づいてきたのが、あたしらのような機関というわけです」
 続けますよ、と言う高峰に、頷きを返す。
「さて、あたしらは陰陽寮の流れを汲んでいる、と言いましたが、あたしらとは別の流れを汲む、同じような機関もあるわけです。勿論日本国内だけじゃあなく、世界中に。……例えば先程晶君が言ったMIBも、・・・あっちの機関の方々です。他にも、仏教系とか、イスラム、キリスト、ユダヤ……まぁ早い話、大きく分ければ宗教ごとに成り立っていますな。日本だけでも約二〇以上の機関があります。ま、この国で一番規模が大きいのはあたしらですがね。何せ、一応日本政府直属ですからな。国家公務員ですよ、要は」
 晶は無言で先を促した。
「また、機関のタイプごとにも、大きく三つに分けられますな。一つは、キリスト・ユダヤに見られる徹底的な魔女裁判や異端審問など、怪異をこの世──というか人間社会から完全に抹殺しようとする者。反対に、進んで自らそれらを受け入れ、崇めようとする者。悪質なカルト集団や、怪異の力による社会の統治という目的の下に動いている者もおります。得てして、こういった方々は暴走しやすいものですが。そして──」
「その中立。崇めるでも排除するでもなく、共存共栄を目指す者。──そうですね?」
 桐花が高峰の言葉を引き継ぎ、言った。
「その通りです。我々は彼らをあくまでも同列に見て、行動しています」
「その割には警告なしに銃で撃ったりするんですね」
 思い切り揶揄するような口調で、桐花。しかし高峰はただ笑って。
「目の前で誰かが危険に晒されていたんなら、それを助けたいと思うのはヒトの良心ですからな。ですが相手が同じヒトであるならまだしも、戦力的に差のありすぎる存在だったら──それ相応と覚悟と装備をもって挑むのは、当然と言えましょう? それに警告などしていたら、その間にこっちがやられとりますわ」
 ぴりぴりと空気が張り詰める。桐花にしてみれば、そこにどんな理由があろうと自分の戦いを邪魔されたに過ぎないのだ。怒りたくなるのも当然と言えよう。
 ふ、とその空気が抜けた。
「脱線しましたな。話を戻しましょう。……さて、あたしらはその中立の立場の中でも、更に特異な機関でしてな。普通中立とはいえ、人間と彼らは相容れぬもの、という考えが定着してしまっているため、積極的に関わろうとはしません。ですがあたしらは違うんですよ。友好な彼らとは好んで交わり、敵対する彼らは全力で駆除する──ある意味、真に『中立』なわけですな。というか、そうありたいと願っています」
 高峰はにっこりと微笑んだ。
「まぁ、あたしらについてはそんくらいでいいでしょう。次は怪異について話しましょうか。お二人とも、当事者である割にそう詳しかないようですからな」
 言って、高峰はソファに座りなおした。
「怪異は大きく三つに分けられます。人間や動植物と同じように、生まれいつか死ぬ、『生物』としての怪異。次に生物が死んだ時に発生する、逝けなかった意志──『霊』としての怪異。まぁ生霊というケースもありますがな。そして──」
「待ってください」
 突然、桐花が高峰の言葉を遮った。
「空気を、泥遊びするように操るモノを、生物と呼べるんですか?」
 そう桐花は言った。だが、それは。桐花がそれを問うこと。それは──
「確かに、そうでしょうなぁ」
 笑って、高峰は頷いた。
「桐花さんの仰る通り、空気を操るモノをヒトは生物とは呼ばんでしょうな。それは人知を超えた行為ですし。人知によって定められた生物学的位置付けでは、それは生物とは呼びませんな。それはバケモノです。──ですがね、桐花さん。それはヒトにとって生物と呼べないだけで、セカイからしてみれば、それはれっきとした生物なのですよ」
 穏やかな表情の中に、一瞬少しだけ厳しい色を見せて。
「……さて、話は戻りますが、三つめの怪異は、ヒトや『生物』としての怪異が、修練によって、或いは長い年月を経た末に、不死の存在となったものです。天狗や九尾の狐やヴァンパイアなどがこれにあたりますな。『不死』は、生物の根幹を否定するものですからな、肉体を持ちながらも死を持たないこれらを、あたしらは『不死階級』と呼び、明確に他二つと区別しとります。むしろこちらの方が、よりバケモノに近い」
 高峰は肩を竦めた。
「まぁ──人間は自分より優れたモノ、異質なモノを認めたがらないものですからな。普通の人々にしてみれば、全部『バケモノ』の一言で括られるのでしょうが。──しかし、桐花さん」
 老人の笑みが更に深まった。
「あなたに、彼らをバケモノと呼ぶ資格がおありですかな──?」
 これ以上ないほどの優しい微笑みを浮かべて、高峰は言い放った。まっすぐに、桐花を見つめて。
 沈黙だけが流れる。晶はこの空間を息苦しく感じた。晶も桐花も高峰も、一様に微動だにしない。
 永劫に続いてしまいそうな、時間。
 ──こんこん
 唐突に、柔らかいノックの音が耳朶に滑り込んだ。圧縮された空気が元の体積に戻る。
「柿崎だけど」
「ええ、どうぞ」
 ドアを開けて、柿崎が顔を出す。
「検査の準備ができたよ。まず嬢ちゃん、あんたからだ。二十分ばかりしたら、坊ちゃん、あんたも来な。場所はそこのジジイに聞け」
「ええ。桐花さん、ちと行ってきてくださいな。詳しい話は、柿崎センセから」
 桐花は無言で立ち上がり、高峰を一瞥することすらせずに部屋を出た。
 ぱたん、とドアが閉じた。
「…………あんまり桐花を突かないでください」
 ドアを見つめたまま、晶は言った。その目には、明らかに不機嫌な気配が浮かんでいる。
「いや、すんませんな。つい、ね」
 申し訳なさそうに、高峰は頭を掻いた。
 ──バケモノと呼ぶ資格があるのか。ついさっき彼の口から発せられたその言葉を思い出した。
 それは、桐花がバケモノじみた力を使ったことに対することではなく、本来バケモノの立場にある桐花が、彼らをバケモノと──自分と同族との間に境界線を引く資格があるのかということへの言葉。
「彼女と会ったのはいつですかな?」
 早速、高峰が切り出してきた。
「八年前の六月です。こっちに引っ越してきたばかりの頃ですね」
「ふむ……成程、符号しとりますな」
 納得、とばかりに高峰は頷く。
「いやね、今回のこの事件が始まる少し前に、ちょっと芦屋さん──さっき神社のとこで一緒にいた人です──が、今回の事件、いえ、小動物連続殺害事件の始まる少し前に、彼女を目撃したらしいんですわ。そして帰ってくるなり、晶君と桐花さんの二人の『観察』を命じたんですよ。つまりは張り込みですな。この前は、接近しすぎて気配を悟られたようですがな」
 この前、というのは、自分と桐花が一緒に帰った日のことだろう。あの時感じた気配は、高峰の言う『観察』をしていた人間ということだ。
「それでですな、その過程で、晶君と桐花さんのことについても色々調べさせてもらいました。そして分かったわけですよ。──晶君のご両親は、七年前桐花さんを、近くの孤児院から養子にとっている。怪異であるはずの彼女をね」
「ええ、そうです」
 今更何を、と晶は思った。そんなこと確認するまでもないことだろうに。
 ──晶と桐花は、血の繋がった兄妹ではない。初めて出会ってから一年後、孤児となっていた桐花は冴島家の養子となった。──怪異である自分を失って。
 そう、自由に空を翔ける翼すら失った、哀れな小鳥。
 そしてその翼をもぎ取ったのは、他ならぬ晶自身だ。
「ところで、桐花さんのことについてちと訊きたいことがあるのですがね」
 晶は何も言わず、コーヒーをすすった。それを高峰は肯定と受け取ることにした。
「さて──桐花さんが一体何であるのか、知っていますかな?」
「ヒトでないことは確かでしょうけど」
「ええ、そうですな。ではそのヒトでない存在の、一体どういった“種”なのか──それは知りますまい」
「……そうですね」
 それはさすがに知らない。桐花自身が語らないのだから、知りようもなかった。
「彼女は“コカクチョウ”と呼ばれる中国由来の妖怪でしてな。漢字は──」
 高峰は取り出したメモ帳に、“姑獲鳥”と書いた。
「こう書きます。またこの字で『ウブメ』や『ウブメドリ』とも読みますが、それは日本に“姑獲鳥”が伝わって他の怪異と混合されたものですからな、今回は関係ありません。──で、この“姑獲鳥”という怪異の最も特筆すべき点は、その繁殖方法にあります」
「繁殖?」
 聞き返す晶に、高峰は深く頷いた。
「ええ、まず“姑獲鳥”には、『男』がいません。つまり“姑獲鳥”はすべからく女性なのですよ。故に有性生殖は行ないません」
「じゃあ、アメーバみたいに分裂して無性生殖するとでも?」
「まさか。彼女達はね、人間の女児を攫って、自分の子とするのですよ。まだ二、三歳くらいの、物心つかぬ子供をね。“姑獲鳥”という名もそこから来とります。そして姑獲鳥の攫われ、育てられた女児は、成長していくにつれて同じ“姑獲鳥”へと変貌していくのですよ。そのメカニズムはまだ解明されとりませんが、彼女達が放出する不可視の何か──妖気といったとこですかな、それによって、人間の遺伝子が徐々に変質されていくのだとか。ちなみに育てられた“姑獲鳥”は、必ずしも親となった者と同じ翼を持つというわけではないようです。この辺りも、元となった人間の遺伝子が関係してくるらしいのですが、まぁこれもまだ詳しく分かっちゃいませんがね」
 高峰はコーヒーをすすり喉を湿らせた。
「故に彼女達は『血縁』というものを持ちません。彼女達は三〇から四〇の群れをなして暮らしているらしいんですが、強いて言うならそれが『家族』みたいなもんですかね」
 晶もコーヒーを口に運ぶ。既に冷たくなっていた。
「“姑獲鳥”は──これは晶君も知っとるでしょうが──その翼をまるで服を脱ぐように着脱することができましてな、それにより彼女達は人間の女に化けるそうです。ちなみに彼女達の足も通常は鳥の足ですが、翼の着脱に伴い変化するようですな。──そう言えば、桐花さんの翼はどうしたのですかな? 付けていないようですが」
「……当たり前でしょう。付けたままで、人間として暮らせるわけがありません」
「まぁ、そりゃそうですわな。失礼」
 にこやかに高峰は微笑んだ。
 ──高峰は気づいたのだろうか。晶の声が、少しだけ不自然に止まったことに。
「ではその翼はどこに隠してあるのですかな? 相当長い間隠されているようですが」
 ──気づいていたらしい。
 いや、それとも最初から晶を試すために、あんな発言をしたのだろうか。
「……そんなこと知って、どうするつもりなんですか」
 否定しても無駄だと、晶は悟った。この老人に対しては、どんな嘘も意味がない。
「それは今後のお二人の出方次第ですな。おそらく今のままでは、桐花さんは彼女──あの“姑獲鳥”には勝てんでしょう。というか、相討ちでしょうな。彼女が完全な勝利を納めるためにはただ一つ。翼を、取り戻すことです。“姑獲鳥”は翼のある状態とない状態では、戦闘能力に大きな差が出るようですからな。現時点では向こうが優勢でしょうが、翼を取り戻せば桐花さんが負けることはまずないでしょうからなぁ」
 呵呵と老人は笑った。
「でも、別に桐花が戦わなくても、さっき蓮花さん──“姑獲鳥”を追っていった人なら、充分勝てると思いますけど」
 ほぉ、と感心したように、高峰は息を吐いた。
「晶君は中々見る目がありますな。確かに芦屋さんなら、彼女を殺すことなど造作もないでしょう。──しかし、それはありえませんな」
「何でですか?」
「芦屋さんの受けた命令は、彼女を捕らえることですからな。芦屋さんはこと戦闘技術に関してはそれこそ神的なまでの力量を誇るのですが、それ以外はどうにも。それに見たところ、さしもの芦屋さんも彼女の速度にはついていけないようですしな。逃げられるのがオチでしょう。──となるとやはり、決着は桐花さんがつけることになりましょうて。元より彼女も、そのためにここまできたのでしょうからな」
 決着は当人同士がつけるものでしょうし、と高峰は言った。
「ま、それはともかくとして。──それで、桐花さんが彼女を倒した後のことですが、あたしらと対立する可能性が出てきますからな。それを危惧してのことです」
「桐花はそんなことしません」
 口をへの字に曲げて、晶は反論した。その様子に、高峰は吹き出した。
「余程信じきっているのですな。ですがあたしらのような組織は、常に最悪を考えて行動せにゃならんものでしてな。何かが起こってからでは手遅れということですわ。これは芦屋さんの弁ですが、彼女の力は相当常軌を逸しているそうです。あの“姑獲鳥”──蓮花さんと呼んでいましたね。蓮花さんの戦闘能力も凄まじいものですが、桐花さんは翼のない状態でそれと互角でした。傷を負ったのはそれこそちょっとした理由でしょうな。経験の差か、或いは──」
 そこから先を、高峰は飲み込んだ。言うべきではないと、判断したからだ。彼にとっては、ただのお節介かもしれないが。
「……ともあれ、そんな怪異からすらもバケモノ呼ばわりされるような“姑獲鳥”が、あたしらと敵対したら、あまつさえ戦うことになどなってしまったら──そう考えると、あたしらも少しばかり過敏に行動せにゃならんのでしてな」
「だから、桐花は」
「分かっとりますよ。一番近くにいたあなたが言うのですから間違いはないでしょう。無論あたしもそう思いますよ。……あたしは彼女に嫌われてしまったようですが」
「高峰さんは桐花をつつきすぎです」
「ごもっとも。──ですが嫌われてはいますが、憎まれてはいないようですしな。それは蓮花さんに対しても同じことです。敵意はありましたが、憎悪や殺意は感じられなかった。まぁあの二人は旧知の仲のようですからな、完全に敵として見切れない、というのもありましょうが……。それと、これは年寄りの経験から言わせてもらいますが、桐花さんのような人は、警戒したり嫌いになったりはしても、心底人を憎むことなどできない人種ですよ」
「──僕は憎まれてますよ」
 唐突に発せられた晶の言葉に、お、と高峰が驚いたような顔を見せる。
「それはまた……どうしてですかな?」
「彼女の翼を奪ったのは僕ですからね」
 自嘲気味に、晶は苦笑した。
「成程……なら、そう思われても仕方ないでしょうな」
 高峰は神妙に頷いた。
 翼を奪った理由を、彼は訊かない。それが晶にはありがたかった。
「……まぁでも、そんなに気に病むこともないでしょう。彼女は別に、あなたを憎んでも嫌ってもいませんからな」
「──え?」
「これも年寄りの経験故ですがね」
 驚く晶に、楽しげに笑って高峰は言う。
「あたしにゃ、桐花さんは晶君といる時が、一番落ち着いているように見えますな。これまでずっとお二人を観察している限りではそう思えました。桐花さんのことをあまり知ってるわけじゃないですがね、この年にもなると、色々とヒトの心がよう分かるようになりまして」
 年の功ってやつですかな、と高峰は笑う。
「……まぁ、単なる野暮ですな、これは。結局のところ、人の心は分からぬもの。時にそれは本人にさえ不可知の領域。移ろい留まることもなく。もし心にカタチがあり、それが見えたとしても、常に変わるそれをひとつのカタチとしてみるのは不可能でしょうな。徒然草でしたかな、『行く川の流れは絶えずして』とね。人の心も、結局は同じですよ」
 目を伏せ、昔語りのように高峰は言う。
「……ま、老いぼれの戯言と聞き流してくださいな」
 瞼を開き、ふと時計に目をやる。
「……っと、もう二〇分経ちましたな」
 晶も時間を確認し、立ち上がる。
「部屋を出たら左に曲がって、その突き当たりを右に行ってください。少し歩けば検査室と書かれた部屋があるはずです。そこに行ってくださいな」
 頷き、晶は部屋を出た。
「──さて」
 懐から煙草を取り出し、口に咥える。火を灯し、大きく吸い込む。
 ────美味い。
 高峰は愛煙家である。しかし先程まで二人がいたため、一応自粛していたのだ。そうでなくとも最近は慌ただしく、満足に吸えない状況にあった。
 故に今の時間は、久々にゆっくりと煙草の味を楽しめる、貴重な時間である。
「未来ある子供の健康を害すわけにも行きませんからなぁ」
 何がおかしいのか、高峰は小さく笑う。
 ここ最近、家に帰っていない。農作業もずっと妻に任せっぱなしだ。この件が終わったら、早く帰って休ませてあげよう。そう高峰は思った。
 高峰は今年で七十八歳を数えるまでになっている。この機関に定年退職というものはない。退職する時は即ち死ぬ時である。それ以外では如何なる理由での退職も認められない。裏社会の知識を持ったまま表に出られると困るからだ。
 とはいえ、それ以外での制約は特にない。秘密を漏らさないことさえ誓えば、この機関の自由度はそれなりに高かった。日本人の曖昧さがよく出ている、と高峰は思う。
 そしてその際たる例が高峰自身だ。高峰はこの町に老いた妻と二人暮しをしている。田舎町であるため家の近くには畑があり、高峰の妻はそこで様々な作物を育てており、高峰も仕事がない時は農作業を手伝っている。
 現状には、とても満足している。後は死を待つばかりの人生だ。
 ──とはいえ、柿崎から『百歳は平気で生きられる』とまでお墨付きをもらった身体ではあるが。
「はてさて……」
 煙草を携帯灰皿で揉み消し、高峰は呟いた。
 部屋にただひとつある窓に目をやる。外では相変わらず雨が降っている。
「あちらはどうなっておるのですかなぁ」
 この空のどこかで、芦屋が戦っているはずである。その様子を思い描くように、のほほんと高峰は窓の外を見ていた。

「──はい終わり」
 軽く言って、柿崎は桐花を診察用のベッドから下ろした。
「やはり“姑獲鳥”と言えど元は人間だな。翼がないせいかどうかは知らんが全体的な身体の機能は全て人間と同じときている。しかし人間と変わらぬその身体でどうやって風を操るのか……理解の範疇を超えているな」
 ぶつぶつと呟きながら、柿崎はカルテに何かを書き込んでいる。その様子を眺めながら、桐花は脱いでいた服を着る。
「しかしさすがは“姑獲鳥”といったところか。回復能力には凄まじいものがあるな。さっき診た傷もほぼ塞がりかけだ。他の種族もこうなのか?」
 それが自分に向けられた質問だと気づき、桐花は返答した。
「いえ……他の種族については何も知りません。“姑獲鳥”に限らず、怪異は異種族間での接触を好みません。と思います。それに……私はもう、“姑獲鳥”ではありませんから」
「そうか……残念だな。もっと怪異のこと知れると思ったんだが」
「……知ってどうするんですか?」
 探るような桐花の問いかけに、柿崎は振り返らずに答える。
「別に。知的好奇心に理由はないだろ? ただ知りたいからって理由じゃ足らないか?」
 そこまで言って、柿崎はようやく桐花に目を向けた。
「まぁ、医者兼生物学者としての性か。ヒトに在らざるモノが、神秘学ではなく生物学において、一体どのような存在であるのか。それを解き明かしたいだけだな。それにそうすれば、医者として彼らを救えるかもしれんしな」
 桐花は何も言わず、続きを待った。
「ジジイが説明したと思うがね、この機関は『中立』だ。それに歴史が古い上、日本中に支部がある分怪異達にも結構有名らしくてね、追われた怪異が助けを求める場合もある。大抵は怪異排除思想の奴らに殺されかけたのがね。それを助けるのもここの医者としての仕事でもあるのさ。だから適切な処置、適切な治療を行なうためには、それ相応の知識が必要だ。知らなかったせいで、助けられなかったってのはよくある話でな、機関の中、特にその専属医の間じゃ無知は罪だ。故に知り、助けたい。それだけだ。まぁ、大層な覚悟じゃないさ。医者としては当然のことだ」
「……何が、柿崎さんをそこまでさせるんです?」
「さて、何でかな。昔はこんな仕事やろうだなんて思っちゃいなかったと思うがね。きっかけがあったと思うんだが、忘れた。まぁそんなもんさ。今の自分に満足してりゃ、きっかけなんざどうでもいいものだろう?」
 ボールペンにキャップを被せ、白衣の胸ポケットに差す。
「まぁンなこたどうでもいいだろ。で、嬢ちゃんについてだがね」
 柿崎はカルテに目をはしらせる。
「やったのは簡単な検査だから、あんま詳しいことは分からなかったな。とりあえず“姑獲鳥”ってことが立証されたくらいか。うちにあったサンプルと完全に一致したし。ついでに健康診断もさせてもらったが……最近あんまり寝てないだろ。睡眠不足か?」
「はぁ……」
 曖昧に頷く。寝ていない理由は睡眠不足ではなく、毎夜毎夜蓮花を探して町を出歩いていたからだ。
「健康管理には充分気をつけるように。ああついでに、あんた、年の割に胸小さすぎ」
「なっ……!」
「牛乳飲んでもあまり効果は望めんぞ。大きくしたいなら愛しの恋人に揉んでもらえ」
 桐花は口をぱくぱくさせた。あまりの言い様に、声すらでない。
「なっ、なんでそんなっ……」
「気にしてたか? そりゃ悪かった。だがそう気にすることでもあるまい。あんたの恋人が必ずしも大きいのが好きというわけでもないだろうし」
「そ、そうですけどそうじゃなくてっ!」
「どっちだ」
 激昂する桐花に対し、柿崎は何の色も浮かばない声で答える。だが口元には、楽しげな笑みが微かに浮かんでいた。
「あの人は恋人なんかじゃありません!」
 とりあえずそれだけは主張しておいた。
「ほう? じゃあ何だ」
「……兄です」
「成程、愛しの兄貴か」
「…………!」
 ようやく取り戻しかけた平常心も、柿崎の一言で再び平静を失ってしまう。
「そう怒るな。胸が縮むぞ」
「縮みません!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ。
「冗談だ、気にするな。──そら、愛しの兄貴が来たぞ」
 間を置かずして、ドアがこんこんとノックされる。
「おう、入りな」
 失礼します、と晶が入ってくる。その横を、桐花はすり抜けるようにして部屋を出た。
「え?」
 晶が頓狂な声を上げる。だがその時にはもう遅く、桐花の姿は廊下の向こうに消えていた。
 気のせいだろうか。桐花の顔が、真っ赤に染まっていたのは。
「……桐花に何かしましたか?」
「何、与太話をしてただけさ。ほらさっさと上脱ぎな。検査するよ」
 桐花の出て行ったドアの方を気にしつつも、渋々晶は服を脱ぎ始めた。


         §


 時間は少し遡る。

 相変わらず疾い。芦屋は素直に感心する。
 彼女を追い始めて二時間が経過している。周囲は既に夜の闇に包まれ、遠くには町の灯かりが見える。二人は今、山の上を飛んでいた。
 全力で飛んでいるのに、一向に差は縮まらない。──否、向こうがわざと速度を落としてくれているのだ。でなければ芦屋の速度では、彼女の姿を見失わずに着いていくことなど、到底不可能なのだから。
 ふざけろ、と悪態をつく。流れる空気にそれは溶け、誰の耳にも届くことはなかった。
 と、彼女の姿が唐突に止まった。朱を戴く翡翠色の鳥は、背の高い木の頭頂に降り立った。芦屋も同じように、少し離れた木に降り立つ。
「何故、私を追う。貴様に私と対峙する理由はなかろうに」
「仕事だからな」
 二十メートルという距離と、強さを増した雨風を挟んでも尚、互いの声はよく聞こえていた。
「仕事、だと?」
 眉をひそめて、蓮花は言う。
「貴様は阿呆だな。ヒト以上の力を持ちながらヒトに仕えるとは愚かだ。元より、我々怪異はヒトにあらざるモノ。それがヒトの世界に身を置けるわけもない」
「俺はまだ人間だ。例えどのような力を得ようとも、俺がヒトであろうとする限り俺はヒトだと思っている。──ついでに言えば、俺は仕えている訳ではない。あくまで契約、取引として、俺はヒトの世界にいる」
「契約……貴様、悪魔にでもなったつもりか」
「悪魔──」
 動きを止め、そしてすぐに、芦屋は肩を震わせ始めた。──笑っているのだ。
「悪魔……か。成程、それも悪くないな」
 確かに、と芦屋は納得していた。確かに自分は、性質的には既に悪魔に近いのかもしれない。何かを与える代わりに見返りを求める。魂こそ獲らないが、命のやりとりすら請け負う契約とは、確かに悪魔じみた行為である。
 何より自分は──悪魔と同じく、不滅であるのだから。
 小さく、自嘲の笑みを浮かべた。しかしそれはすぐに消える。
「さて──今度は俺が訊こう」
 悠然と、芦屋が言う。
「貴様があの少女──桐花を追う理由は一体何なのだ」
「……アレは我々に災禍をもたらす存在だ。故に、殺さねばならん」
「何故、そう分かる?」
「“しん”に書いてあることだ」
「──未来記のことか」
 蓮花は無言で肯定の意を示す。
“讖”とは、芦屋の言う通り未来記のことである。未来の禍福吉凶を記した予言の書。それが、讖と呼ばれるものだ。
「我々の群れに代々伝わる“讖”にあるのだ。黒き翼の者が、災いをもたらすとな」
「その『黒き翼の者』とやらが、あの桐花だというのか」
「そうだ。アレの翼は黒だった。鴉の羽だよ。──今は、どういうわけかそれがないようだがな」
「……愚かだな」
「──何が」
「その“讖”を信じることが、だ」
 嘲笑の響きを含ませ、芦屋は言った。
「未来とは常に定まらぬものだ。ヒトの心と同じくな。流れ留まることのない川のように。それを占い、それを信じるなどとは愚かだ。そうは思わんか」
 挑発のつもりで、芦屋は言った。だが蓮花の浮かべた表情は──自嘲だ。
「確かに、な」
 ふっ、と目を伏せ、息を吐く。
「正直私もそう思う。何とも馬鹿馬鹿しい。過去の亡霊にとり憑かれているのさ、我々は」
「ならば、何故」
「それでも、それに縋らねば我々は生きていけん。あまりにもそれに頼る時間が長すぎた。抜け出すことなど、今更できはしない。……“讖”は我々にとって、未来への希望と絶望だった。故にそれに記されている絶望を我々は怖れる。怖れはやがて憎悪となり、それを排除しようとする向きに働く。そしてそれを排除して、安心する。そういうものだろう?」
「確かにな」
 頷き、芦屋は更に問うた。
「では何故桐花が生きている。“姑獲鳥”は通常、育てられ始めて二年足らずで完全に腕は翼となり脚は鳥のものとなると聞く。しかし桐花は明らかに十五の年を数えている。殺した者が蘇ったわけでもないだろう?」
「群れの掟を守れなかったものは迫害される。つまるところ、それが私だ」
 てんで的外れに思えるその言葉に、芦屋は答えた。
「……殺せなかったのか」
「そういうことだ。実を言えば、アレは私の娘だった。アレの翼が黒いと知った時、皆はアレを殺そうとした。だがあの頃は私も母としてアレを愛していたからな、群れの長老に頼んで、とりあえず様子見ということになった。──が、やはりアレは異端だった」
 口元に皮肉げな笑みを浮かべる。──それは自分自身に対してのものだろうか。
「八年前、ちょっとした拍子にアレが翼を振るった瞬間、隣にいた仲間が細切れになっていた。アレ自体は理解できていなかったようだが、自覚なしにアレは風を操っていた。今度ばかりは、止めることもできなくてな、結局、私自身が始末することになった」
「だがやはり殺せず、逃がしたということか」
「……そういうことになるな」
 閉じていた瞼を開く。その瞳に感情の色はない。
「だが半年ほど前、今更になって逃がしたことが発覚してしまってな。その時群れは大陸にいたが、たまたまこちらに出かけていた一人が見つけたらしい。以来私は迫害され続けてきた。そして最近、偶然群れがこの辺りを通りかかってな、桐花がいることが分かると、改めて私に抹殺命令が下された。──殺さねば、私が殺される」
「……愚かだな」
 嘲りさえも浮かべず、芦屋は言う。
「何故、そこまで迫害され続けていながら逃げ出さなかった」
「それ以外に道を見つけられなかった。“讖”と同じだ。今更抜け出せるわけがない。確かに愚かだろうな。だが私は──それでも私は、一人で生きていけるほどに、強くはない」
「自覚しているなら強くなれば良かっただろうに」
 芦屋の言葉に、蓮花は俯いた。朱の前髪が顔を隠し、その表情は窺い知れない。
「……どの道、今更遅い。元より後戻りできる方法など、ない」
「もう一つ、言わせてもらおう」
 彼女の様子にお構いなしに、芦屋は続けた。
「お前は、全て桐花のせいだと言った。だがそれはお門違いではないのか? 桐花を攫ったのは、母親であるお前だろう? 桐花でなければ、翼は黒くならなかったかもしれない。故に、お前が桐花を子とし、それを育てたのは──結局『運』なのではないか?」
 ──しばらく、無言だけが流れた。
「……貴様は」
 ようやく、蓮花が口を開く。
「全てを『運』命という言葉で割り切れるか?」
「……無理だな」
 それには、芦屋も同意した。諦めきれないことは、あまりにも多い。
 ふ、と小さく、蓮花は息を吐く。
「無駄話は終わりにしよう。我々は何のためにここにいる?」
「俺はお前を捕らえるため。お前は俺から逃げて桐花を殺すため」
「そうだな。……だが私もいい加減暇を持て余している。少しくらい、戦わせてもらうことにしよう。それに──」
「それに?」
「一度、悪魔と戦ってみたかった」
「……面白い。よかろう。光栄に思え若き“姑獲鳥”。貴様の相手は、この悪魔がしてやろうではないか」
 ばさぁっ──
 演技のかかった仕草と共に、芦屋の背中に夜色のマントが広がった。風を受けながらも、まったく風に従わず、芦屋を包み込むように自分勝手にたなびくその姿は、さながら本物の悪魔の翼のようだ。
 最早、言葉はない。
 前触れもなく、蓮花が浮き上がり、翼を振るった。
「──鏡魂かがみたま!」
 小さく叫び、芦屋は右手をマントの中に突っ込んだ。
 風の刃が襲来する。芦屋は右手を引き抜き、勢いそのままにそれを振るった。
 ──ぴしっ、という音を、蓮花は聞いた。
 頬に触れる。ぬるりと生暖かい感触。触れた手を見てみれば、赤い液体が付着していた。(何をした?)
 思考しつつ二度、翼を振るう。雨を弾き突き進む双牙が芦屋を襲う。
 そして、蓮花は見た。
 芦屋の手には、一枚の扇子が握られている。それも普通の扇子ではなく、装飾、或いは儀礼的な行事に用いられる、薄い銀製の扇子だった。
 振るわれたそれが、風を跳ね返した。
 打ち返された最初の風刃は、それを追って飛来したもう一つの風刃とぶつかり相殺して消えた。
 芦屋は、扇子で風を打ち返していた。それが如何様な仕掛けかは理解できないが、少なくとも正面からまともにやりあっていて勝機はない。蓮花はそう理解した。
 なら、と翼をはためかせる。今度は風を起こすのではなく、それに乗るために。
 流れ、そして薙がれる気配を感じたときには、もう遅かった。情報を脳が認識し身体に命令が伝わる前に、それが身体に届いた。
「ぐぅ……ッ!」
 思わず呻き声が漏れた。音もなく横を通り抜けた蓮花が、芦屋の脇腹を斬っていた。一瞬感じた痛みを、痛覚を遮断して消す。血の流れを止め、切断された部位の細胞を活性化させ修復に努める。
 背後に向かって扇子──“鏡魂”を振った。背後から迫っていた刃をその主に弾き返す。が、そこに蓮花はいない。
 ──下です!
 脳内に声が響き、直後芦屋のマントが長く伸び盾となった。昇る無数の風の刃は、全てそのマントに受け止められ、消えた。
「すまん、倉敷」
 芦屋は、風の刃を弾き落としつつ、自分を守ったマントに呼びかけた。
 ──いえいえ、礼には及びません。それより、すいませんでした。さしでがましい真似をしてしまって。
「いや、お前の判断は正しい。あの“姑獲鳥” は予想以上に強い。どうやらお前の助けなしには、勝てそうにない。……援護を頼む」
 ──了解しました。
「頼りにしている」
 僅か二秒で、会話を終える。
 一点から放たれた刃が大きく弧を描き、左右から同時に迫り来る。芦屋は右側のそれを“鏡魂”で弾き、左側はマント──“倉敷”が受け止めた。
 視界の端に、一瞬蓮花の影が映った。すかさず芦屋は、その進行方向に手を広げる。
「Donner Tanzen!」
 芦屋の言葉に呼応し、青白い人工の電光が集い、放たれる。雷は雨の中を駆け抜け、正確に蓮花に向かって突き進んだ。
「ちっ……!」
 舌打ちし、蓮花は翼をはばたかせた。慣性の法則を無視して不規則に飛ぶが、それでも雷光は彼女を追ってくる。雷が近くの物体に落ちるのは周知の事実だ。例え金属を身に付けていようといまいと、生物の血液中には多量の塩分と鉄分が含まれる。周囲に少々高い物があっても、少しそれらから遠ざかると、雷は極めてストレートに生物に向かって落ちるのだ。
 芦屋の横を掠め雷の追う対象を変えさせることも考えたが、多分それは無駄だ。自らの発した雷に打たれるほど、あの男は馬鹿ではない。
 見れば、芦屋の手には雷の蛇が絡み付いていた。第二撃を放つつもりだ。
 もう一度舌打ちし、蓮花はくん、と身を仰け反らせた。天に向かって。
「逃さん……!」
 背後で、芦屋が再び雷を放つ気配がした。だが蓮花は振り返らず、そのまま上昇を続ける。
 見る間に、灰色の雲が近づいてくる。足元からは、二条の蛇が迫り来る。そして更にそれを追う、黒い男の気配。
 蓮花は大きく翼を振るった。巻き起こされた風が身体を持ち上げ、そして躊躇わず、黒雲の中に突っ込んでいった。

 ぼしゅ、と翡翠の弾丸が、灰色に広がる雲海を突き破った。
 満月を背に、弾丸がその翼を広げる。濡れた翼が雨露を払い、その雫が月光を受けて、まるで星のように煌く。
 満月を背に翼を広げたその姿は、正に幽玄の美。
 ふう、と息を吐き、身体を落ち着かせる。
 雷は追ってこない。当たり前だ。さすがに分厚い雨雲の層を貫くことはできないだろう。当たった時点で拡散してしまう。
「──来たか」
 離れたところで、黒い塊が雲から出てきた。それはそのまま上昇し、雲海の水面から七〇メートルほど昇ったところで一瞬停止。その後は緩やかに降下し始めた。
 そして丁度、蓮花と同じ高さまで降りたところで、その塊は停止し──
「中々、風流な光景だ」
 ──悪魔の翼を、広げた。
 中空に浮かぶ芦屋の背には、大きく左右に“倉敷”が広がっている。その内に無限の闇を讃えた、漆黒の悪魔の翼が。
「月を背に浮かぶ女怪にょかいか。これが戦いの最中でなければ、思わず見惚れていたところだ」
「今は見惚れないのか」
「無論。今は、お前と戦うこと以外に興味はない。戦いの最中に余計なことを考えるのは、命取りだ」
「だな」
 す、と蓮花の両翼が霞んだ。
「──細切れにしてやる」
 直後、凄まじい空気の流れが芦屋に叩きつけられた。びしびしと打ち付ける風は、確実に芦屋の身体を細かく切り裂いていった。
(風圧は強いが……それほどのものでは──)
 ──いけません。
 唐突に、“倉敷”の呟きが響く。
 ──これは…………ただの余波です!
 それを聞いた後の芦屋の反応は早かった。“倉敷”の中に両手を突っ込み、その名を呼ぶ。
「干将、莫耶!」
 ずぱっ、とそれが引き抜かれ、次いで胸の前で銀閃が交差した。
 芦屋の手には、それぞれ二本の長剣が握られていた。ただしそれは西洋的なシルエットではなく、東洋的なものである。鍔の部分には、白と黒の勾玉が互い違いにくっついたような紋様──太極図が刻まれている。
 二つの剣は一見同じ造りだが、刀身の色と紋様が違った。右手の剣の刀身は黒く、亀甲紋が刻まれており、逆に左手の剣の刀身は白く、読解不能の文字が剣先から鍔元まで書かれていた。
 ──来ます!
“倉敷”が警告するよりも早く、芦屋は右手の剣を胸の前に掲げた。
「目醒めろ、干将──!」
 声は、風に飲み込まれた。
 ゴッ、と、風の音というよりも、むしろ鈍器で殴ったような音を引き連れ、風の塊が突撃してくる。無数に発生させられた圧縮空気の槍が、更に一まとめにされ撃ち出される。直撃すれば、いかに“倉敷”といえど引き千切られ、その向こうの芦屋までをも粉末状になるまで切り刻んでも止まらないだろう。
 その様は、正に風の龍。
 牙が、爪が、角が、鬣までもが敵を蹂躙し駆逐し殲滅し完膚なきまでに叩き潰し食い尽くす。そんな圧倒的で破壊的な暴風。
 ──だが、そうはいかん。
 牙を剥く龍の鼻先めがけて、芦屋は黒い剣──“干将”を突き出した。
 潰れた。
 龍の顔が、間抜けに歪んで潰された。まるで剣先から広がる見えない何かに突き当たったかのように。
 ──否、実際そうだった。“干将”の刀身からは紫色の燐光が放出され、それが剣先から螺旋状に渦を巻いて円錐型に芦屋を包み込んでいた。
 牙が、爪が、角が、鬣までもが敵に蹂躙され駆逐され殲滅され完膚なきまでに叩き潰され食い尽くされる。しかしそれは決して圧倒的でも破壊的でもなく、ただ相手の力の渦中に割り込みそれを拡散させるだけの、紫光の渦。
 尾の先までを分解され、龍が通り過ぎ去った後には、ただ心地良い風だけが残った。その風に髪と“倉敷”を弄ばせ、静かに目を伏せていた。

 蓮花は水色の目を大きく見開き、芦屋を凝視していた。だがその瞳に映る驚愕は、自らの技が破られたことにではなく、芦屋そのものへのものだった。
「干将に……莫耶だと……!?」
 呆然とその名を口にする。彼女にとって、芦屋の双剣の名はあまりに深い意味を持ちすぎた。
 陽剣“干将”・陰剣“莫耶”。それは紀元前五〇〇年の中国──呉越の争いの時、呉王闔廬こうりょに捧げられた宝剣の名である。
 かつて、呉には干将という名の腕のいい鍛冶師がいた。王となった闔廬は、干将に稀代の名剣を作るように命じた。早速干将は用意できる限りの素材を用意し、自分の持てる限りの技術を以て剣を作り始めた。彼の技術の凄まじさは、神々さえもが見惚れるほどであったという。
 しかしどうしてか材料となる金属が上手く混ざらなかった。すると何を思ったか、彼の妻の莫耶が、坩堝の中に身を投げ出したのである。助ける間もなく莫耶は焼き尽くされ、その身を融けた金属の中に溶かしたのだ。
 悲嘆に暮れる干将だったが、何故か金属は上手く混ざり合っていた。干将は涙を流しながらその材料から二本の剣を完成させ、それぞれに自分と妻の名である“干将”“莫耶”の名を与えた。
 やがて干将は“莫耶”だけを闔廬に献上し、干将は王からの報酬も栄誉も何もかもを捨てて、己の名を冠した剣を抱き何処ともなく消え去ったという。
 そしてそのまま、“干将”“莫耶”の両剣は、別れたままのはずであった。だが──
「何故、貴様が持っている」
 蓮花の問いは、もっともなものである。“姑獲鳥”は元々中国にのみ住んでいた。それが時を追うごとに日本にも渡ってきたわけだが、古来より伝わる風習や伝説はずっと伝えられてきた。“干将”・“莫耶”の伝説も、その中の有名な話の一つだった。
 そんな、最早朽ちていてもおかしくないような幻の宝剣を、何故この男が持っているのか、蓮花には理解できるはずもなかった。
 伏せていた目を、ゆっくりと芦屋は開く。
「──“干将”、“莫耶”の両剣は、互いの伴侶を求め合ってな哭くという──」
 静かに、芦屋は語り出した。
 今芦屋が話した逸話は、蓮花もよく知っていた。元より本来一つであるものを割くことは、総じて良い結果をもたらさないものだ。
「俺がこの“莫耶”を見つけた時、確かにこいつは哭いていた。早く片割れに会いたいとな」
 言って、芦屋は“莫耶”を掲げた。その刀身からは、緑色の燐光がゆらゆらと立ち上っている。
「それでこいつを見つけた後、暇さえあれば“干将”の方も探してやっていた。それで見つけたのが……大体二五〇年ほど前か。かくして夫婦は、再び巡り合ったというわけだな」
「二五〇年、だと……!?」
 それは明らかにヒトが渡ることのできない年月だ。怪異においても、そう長く生きられるものはそうそういない。
 ならば、この男は、
「──成程、貴様、『不死階級』か!」
 そう考えれば、腕のことも納得がいく。この前、最初の邂逅の時に自分が切り刻んだはずの腕が、今は完全に復元されている。それも、不老不死であることを考えれば別段おかしいことではない。
「少し違うが、まぁそのようなものだ」
 ちき、と胸の前でクロスされた剣が鳴る。芦屋の目は細められ、意識の全ては目の前の“姑獲鳥”に向けられていた。
「お前がここまで昇ったのは、むしろ俺にとって好都合だった。余計な被害の心配をせずに、思い切り戦える」
 笑みの形にさえ、芦屋の口元は歪まない。これこそが、この男の本気のスタイルであると、蓮花は直感した。喜悦も感慨も削ぎ落とし、冷徹に戦うこと。機械よりも冷たく、ヒトの思考より複雑に相手の動きを予測し、刃の届く一瞬を狙う。
 ひゅん、と軽く、“莫耶”が振られた。
 描かれた緑色の軌跡は消えず、やがてそれは円を描いて一つの円陣と化す。
 芦屋を守るように回る、直径二メートルのリング状の円陣。幅が十センチほどあり、複雑な紋様が描かれている。
 もう一度、芦屋は剣を振る。一つ目よりやや直径の大きい円陣ができる。更にもう一つ。
 作業を終え、芦屋はだらりと両手を下げる。
 悪魔の周りを、角度を変え、向きを変えて、くるくる回る三つの円陣。だがそれらが必ずしも芦屋を守るためだけに存在しないことを、蓮花は感じていた。円陣からは、『守る』気配などではなく、『斬る』気配ばかりが伝わってくるのだから。
 意識が、尖る。
 自分の全身の筋肉繊維が、ぎちぎちと音を立てて収束するのが分かる。攻撃、反撃、防御、回避、そのどの行動にも瞬時に移れるように、精神と肉体の体勢を整える。
“莫耶”が、振られた。
 一番外側の円陣が唐突にその直径を増した。芦屋を中心に、まるで波紋が広がるように蓮花を襲う。
 横一直の斬撃。上昇し、その上を抜けて芦屋に飛ぶ。
 第二波は斜めだった。蓮花から見て、左上から右下に向かっての線。苦もなくそれを躱し、更に近づく。
 三太刀目は、予想したとおり縦一閃に迫ってきた。蓮花はそれを軽く横に動くことで避け──本能によって身体を落とした。
「────!」
 頭の上を、唸りを上げて緑色の刃が通り過ぎていった。それは一番最初に躱したはずの刃だった。
 ぞくり
 背中を抉るような恐怖を感じ、蓮花は身をくねらせた。先程まで自分の首があった位置を、後ろからの刃が通り過ぎていった。角度を変えた、二番目の刃。
 ──視界の端の芦屋は、戻ってきた最初の刃を、再び振るっていた。
(そういうことか……!)
 歯噛みする。この刃は、一度避けてしまえば終わりなのではない。むしろ避けた後こそ始まりなのだ。
 放たれ、一定の大きさまで広がった刃は、今度は逆に縮小する。そして元の大きさまで戻ると、芦屋が剣を振るい再び標的を狙う刃となる。まるで手鞠遊びのように。否、むしろこれはお手玉に近いか。三つの円陣をかわるがわる投げる、刃のお手玉。
 一度踏み込んでしまえば、前から迫る刃と後ろから襲う刃に挟まれ、抜け出すことができなくなる。これは結界だ。乱れ飛ぶ刃に包まれた、剣閃結界ソードワールド
 前と後ろから、同時に刃が迫る。ちょうど斜め十字を描くように。右に避ければ、再び後ろから横一文字に刃が迫る。今度は上に。直後、縦一文字に刃が襲う。
 キリがない。文字通り縦横無尽に、刃は襲い掛かってくる。今は辛うじて躱せているが、それも時間の問題だ。あの男は自分を捕らえるのが目的だと言ったが、おそらく四肢を切断するくらい平気でやってのけるだろう。
 ──意識が逸れた。
「くぁっ……!」
 右翼の先端を少し持っていかれた。たかだか二、三センチを切断された程度で動きに支障はないが、神経が集中している分、痛い。
 僅かな肉と共に削ぎ落とされた羽根が、通り抜けた刃の剣風に巻き込まれひらひらと舞う。ひらひらと──舞う?
 その瞬間、蓮花は気づいた。──この刃を避けることは、さほど難しいことではない。
(──落ち着け)
 できるだけ精神を平定させ、神経を研ぎ澄ます。視界と気配で捉えるでなく、身体全体で流れを感じる。
 気づいてしまえば、後は簡単なことだった。元より風に乗ることは得手である。
 背後から迫る刃を、蓮花は避けようとはしない。ただ──それが巻き起こす風に、流されるだけで。
 ふわり、と、冗談のように軽く蓮花はそれの上を舞った。まるで、そう──一枚の羽根のように。ひらひらと風に舞い踊るように。
 全ての刃をすれすれで、しかし無理なく躱す。そして躱し様に、風の刃を放つ。
 が、それらは全て“干将”によって破壊されてしまった。遠目に見ていて分かったが、“莫耶”が『斬る』ためにあるのなら、“干将”は『突く』ためのものだ。しかもそれはただの突きではなく、防御も兼ね備えた突き。突きは相手に深い傷を負わせ、防御は相手の攻撃を防ぐものだが、“干将”の『突き』は、紫色の粒子の渦で相手の存在の中に『割り込む』のだ。概念的には、むしろ『貫く』行為に近い。
 ともあれ、自分の攻撃はまったく意味を為さないのだ。
(──逃げるか)
 即決する。元々、戯れに戦っていただけなのだ。捕らえられては意味がない。元よりこの相手は、自分の力の及ぶ相手ではなかった。戦いを挑んだことは、例え戯れであっても無謀なことだったのだ。蓮花は素直にそう認めた。認められたのは、力の差が歴然としすぎていたからなのか。
 逃げるのは簡単だ。向こうの攻撃は、最早自分には当たらない。それなら、避けながら遠ざかるのはそう難しいことではない。
 一瞬でそこまで思考し、するりと刃の猛襲を抜ける。後ろ向きに、だ。
 蓮花の動きに対し、後退できる極めて小さい。それは仕方のないことだった。何しろ半分以上風任せ。これ以上急げば、上手く風に乗ることができなくなる。だが急ぐ必要はない。どうやら芦屋は、剣を振るっている間は──見当違いだとしたら極めて危険な思い込みだが──その場から動けず、また先の雷のような間接攻撃もできないようである。そして間接攻撃であれば大抵は避ける自信があるし、もし向こうが近接格闘の望んできたとて、自分には追いつけない。
 勝てる見込みはないが、逃げ切れる自信はあった。我ながら情けないとは思ったが。
「──逃げるか」
 遠くから呟きが聞こえたが、無視する。そろそろ刃の最大射程に近づいてきていた。もう少しで逃げられる。そう確信する。

「だが我より逃れられると思うてか、小娘が」
 ──耳元でその言葉が囁かれるまでは。

 声もなく、驚いて思わず全身で振り返ったのは、彼女にとって幸運と言えたであろう。
 唸りを上げて空気を貫く“干将”が、蓮花の脇腹を浅く抉った。紫の粒子が、視界を流れていく。
(馬鹿、な……ッ!)
 自分の身に起こった事態に驚愕しながらも、なおも蓮花は“莫耶”の刃を避けた。
 やはり、その場から動けないというのは見当違いだったのか。ならこれはどう説明する。この、今も動いているこの緑色の刃は──!
「お前は別に何も間違えてはいなかった。俺は“莫耶”を操っている間は、その場から動けない」
 す、と大きく芦屋が“干将”を引く。その際、今の今まで芦屋のいた場所が──“莫耶”の円の中心が見えた。
 そこには確かに、それがいた。
 見覚えのない少女が、“莫耶”を握って浮いている。酷く、冷徹に、無表情に。
「お前の敗因は、俺の半身が動くことを考慮しなかったことにある」
 芦屋の背中に、“倉敷”はない。
 それを避けられたのは、もう奇跡に近かった。
 刃の最大射程には既に到達していた。本能に──それこそ動物的本能に突き動かされ、背中向きのまま思い切り翼を振るう。その鼻先に、紫色の燐光を迫らせながら。
 一瞬で芦屋の姿が小さくなる。追って来る様子はない。追いつけないことを自覚しているのか。
 視界が白く閉ざされる。雲の中に突っ込んだのだと理解した。
 脇腹の痛みに苛まれながら、蓮花は考える。何故自分は、無謀と分かっていながら戦いを挑んだのか。例えそれが戯れだとしても。
 ────止めて欲しかったから?
 かつての娘を殺そうとしている自分を止めて欲しかったから?
 馬鹿馬鹿しい、と自己否定する。そんなことはありえないのだ。アレはもう自分にとって、邪魔である以外のなにものでもないのだから。
 ともかく今は逃げて、身を休めよう。傷は存外に深い。この状態では桐花に勝つどころか、互角に渡り合うことさえできない。
 そうして、それに気づいて嗤った。自分自身を。
 結局のところ、自分はそうやって桐花との戦いを先延ばしにしているではないか、と。

「……逃げおおせたか」
 ──追いますか?
“倉敷”の声に、いや、と芦屋は首を振る。“倉敷”は既にマントに戻り、芦屋の背中で揺れている。
「追いつけん。手負いとはいえ、それでもまだ向こうの方が疾い。やはりただの“姑獲鳥”ではないということだな」
 ならば、それと翼なしで渡り合うあの少女は何だというのか。
「──勝ち目はないな」
 ──どちらが、ですか?
「あの“姑獲鳥”が、だ」
 ──それでは、どちらか分かりません。
 笑う気配。
「訂正する。今戦った方が、だ。蓮花と言ったか」
 ──それは何故?
「あの二人──蓮花と桐花が戦って、現状ではほぼ互角だ。先程は桐花のほうが傷を負っていたが、あれは経験の差か──或いは連れの男を巻き込まぬよう気を回していたからかもしれん。それさえなければ間違いなく相討ち、足掻いて勝っても、空を飛ぶ余力も残らんだろうな。──ましてや、桐花には今翼がない」
 ──確かに、彼女が翼を取り戻せば──
「正真正銘のバケモノとなる」
 呟くように言って、芦屋は吐息する。両手にまだつがいの剣を持っていることに気づき、それを“倉敷”の中に戻した。
「さて、帰るか。……笹垣に叱られるのは目に見えているがな」
 無表情の中に少しだけ狼狽を浮かべた芦屋に、彼の従者は小さく笑みを漏らした。


         §


 高峰の車に送られ、晶と桐花が家に着いたときには既に夜十時を回っていた。
「ただいまー」
 当たり前だが返事はない。
 そのまま二人は何となくリビングのソファに並んで座っている。一応テレビはつけているが、その音もどこか遠いものに聞こえる。
 晶は、起こった出来事が多すぎて、上手く整理しきれないでいた。平静を保っているつもりだが、その実、結構混乱している。
「──どうぞ」
 隣で梨を剥いていた桐花が、こと、と皿に何切れか乗せて、晶の前に差し出した。そのうち一つには、既にフォークが刺さっている。
「ああ……ありがと」
 礼の言葉さえもぞんざいになる。だが桐花はその言葉すら耳に入っていないらしく、茫洋とした瞳で無心に二個目の梨の皮を剥いている。するするとまるでそれが当然であるかのように、ひと繋がりになって皮が下の受け皿に下りていく。
 そんな桐花を横目で眺めつつ、晶は梨を齧った。しゃく、と軽い音がして、淡い甘みが口の中に広がる。
 毎年のことながら、叔父の送ってくれる梨は美味しい。この町とほぼ変わらぬような田舎町で、晶の叔父は農家をやっている。
 考えることは、あまりにも多い。蓮花のことも、高峰の話もそうだが──何より、桐花が自分に対し好意を持っているかもしれないということが、思考の大半を占めている。だがそれは所詮答えの出ない思考だ。本人に問いたださない限りは。
(不謹慎かな、僕は)
 自問してみる。あの瞬間──神社で対峙した蓮花が、見えない何かを放った瞬間、後少しでも避けるのが遅れていれば、自分は死んでいたかもしれないというのに。
 そして、自分自身の異常。間違いなくヒトという種の限界を超えた動きで動き、見えない何かを空気の塊だと見た自分。これを異常と呼ばずして何と呼ぶ。
 本来考えるべきは、そういったことなのだろう。しかし今気になるのは、桐花の本当の気持ちばかりだった。
 晶は桐花のことが好きだった。出会ってから今まで、ずっと。そして多分これからも。──狂おしいばかりに。
 晶は、自分の気持ちを隠そうとはしなかった。それには桐花も気づいているだろう。傍から見ればただの世話好きな兄に見えただろうが、晶の桐花に向ける気持ちは、男女間のそれだ。その辺りのことは、晶と親しい伸也と咲菜は知っている。
 晶が桐花に名前で呼んで欲しい理由もそこにある。やはり好きな人からは、名前で呼ばれたい。──知っての通り、頑なに桐花は『お兄ちゃん』と呼び続けるのだが。それは復讐だからだと桐花は言う。だが言葉とは裏腹に、桐花は自分を想っているとしたら──? そんな、希望的観測。
 今更気恥ずかしさがあるわけではない。だが桐花が自分を想っているかもしれないと思うと、妙に気になるのだ。──いや、その気になるということが、気恥ずかしいということなのかもしれないが。
 だがそもそも、部外者であるあの老人に何が分かるというのか。傲慢かもしれないが、桐花を一番良く知るのは自分だという自負が晶にはあった。それが、遠巻きに眺め今日話しただけの相手に、どうして桐花の気持ちなどが分かろうか。分かるはずがない。
(……やめよう)
 自制する。このままだと思考がどんどん嫌な方向に行ってしまいそうだった。それに、近くでは見えない部分というのも確かにある。高峰のように、離れた位置からしか見えないものも。そう晶は自分を納得させた。
 ──とはいえ、どの道それらは全て推測の域を出ないのだ。これも高峰の言葉だが、結局のところ人の心は分からぬものなのだから。──自分自身の心さえ。
 桐花は自分を恨んでいるのか好いているのか。そして──自分は本当に、桐花のことが好きなのか。それすらも、分からなくなってくる。
 本当に、八年間も続く想いというものがあるのか。既に強迫観念と化しているのではないのか。自覚のないままに。だとすれば、それはどんなに愚かなことか──
 足元のクッションを膝の上に持ってきて、ぼふっ、とその中に顔を埋める。桐花の視線が一瞬こちらを向くが、気にしない。
 それ以上考えるのが怖かった。自分の、桐花に対する想いがまやかしであるのなら、自分は八年間も自分自身に騙され、ありもしない支柱で自分を支えていたことになる。それが嘘だと気づいてしまえば消えてしまう、幻の支柱に。
 支柱。そう、支柱だ。桐花という少女は、少女への想いは、晶の中であまりにも大きい存在となってしまっている。そしてそれがなくなれば──残りの細い柱で自分を支えきれる自信が、晶にはなかった。
「……桐花ー」
 クッションに顔を埋めたまま、呼ぶ。
「何ですか?」
 梨を剥く手は止まっていない。
「蓮花さんって、桐花の何」
 手が、止まった。
「……お兄ちゃんには関係のないことです」
 再び手が動き出す。そしてしばらく、どちらも何も言わなかった。
「……訊かないんですね」
「何が?」
「前にみたいに、屁理屈こねて聞き出そうとしないんですね」
「……ま、ね」
 クッションから顔を上げる。
「訊かれたくなさそうだから、訊かない」
「この前は訊いたくせにですか?」
「寝るの邪魔されて、ちょっと苛立ってたから。ごめん」
「……謝るのは、私の方です。自業自得みたいなものですし……」
 しゅんとなって、桐花は俯いた。普段の彼女なら、晶にこんな気弱な表情は見せない。彼女も色々とありすぎて、疲れているようだった。
 唐突に晶の手が伸び、桐花の手から剥きかけの梨と果物ナイフを奪う。
「ま、おあいこってことにしとこう。でもね桐花、君のために言っとくけど、もう二度とあんなことしない方がいいよ。でないと──」
 するすると器用に皮を剥き、六つに切り分け、種の部分を取る。皿に置いたそのうち一つにフォークを突き刺し、桐花の眼前に突きつけた。
「次からは襲ってしまうよ?」
 意地悪な笑みを浮かべ、晶は言う。桐花の顔が赤く染まり、うなだれる。晶はくすくすと笑いながら桐花の手にフォークを握らせ、ソファから立ち上がった。
「それじゃあ、先にお風呂入ってくるよ」
 まだ笑いを含ませた声で言いながら、晶はリビングを出た。

 ぱたん、とドアが閉じられ、リビングには一人桐花だけが残される。
 とりあえず、リモコンの電源スイッチを押してテレビを切る。
 静かになる。とても、静かに。聞こえてくるのは自分の心音と血液の流れる音くらいで、後は何も聞こえはしない。雨も既に止んでいるようだった。
 今更ながらに、手に梨が一切れあることに気づき、とりあえずそれを口に運んだ。しゃく、と言う音が、静謐な空間に束の間の音を与えた。
 甘みを感じながらそれを咀嚼し、呑み込む。喉を通り過ぎた後にも、柔らかい後味が口の中に残る。
 考えるべきことが多いのは、桐花も同じだった。
 何故今更なのか、と思う。八年前自分を捨てておきながら、何故今更になって殺しに来るのか。向こうにも向こうなりの事情があるのだろうが──
「本当に、何で今更」
 何で今更。今頃になって殺しに来るくらいなら、八年前に殺しておけばよかったのに。
(本人に訊かないと、分かりませんか)
 とはいえ、訊いて答えが返ってくるかどうかは分からない。
 そして訊かないと分からないことは、もう一つある。
(お兄ちゃんは──晶は、私をどう思ってるんですか?)
 こちらは、訊かずとも大体分かることではあるが。気づかぬほど、桐花は鈍感ではない。それに、言ったではないか。今日、確かに。晶は自分のことが好きだと。
 あんな場面であんなことを言うなんて、どうかしている。──いや、あんな場面だからこそ、か。桐花は思う。
 そして、訊いても分からないことも一つ──
 考えていると、段々と思考に靄がかかってきた。やはり、疲れているらしい。そうでなくとも最近は寝不足なのだ。瞼が重くなってくる。とりあえず今は寝よう。ソファだが、構うものか。眠いんだから、もう仕方がない。
 視界が闇に閉ざされていく中で、桐花は最後に考えた。訊いても分からない問を。
 結局自分自身は、晶のことをどう思っているのだろうか──

「きり……あらら」
 リビングのドアを開けた途端飛び込んだ光景に、晶は思わず小さく笑みを漏らした。
 ソファの上では、桐花がすやすやと眠っていた。横になって丸まっているその姿は、どことなく猫を思わせてかわいらしい。
「まったく……風邪引くよ?」
 さて、と晶は眠りこけている桐花を思案げに見下ろす。
「…………後で怒られそうだね」
 独白して、桐花の身体を抱きかかえる。
「……軽い」
 桐花は思っていた通り、軽かった。すっぽりと両手に納まる華奢な身体。伝わってくる柔らかい手触りと、確かな体温。
 ……この身体のどこに、あんな力が秘められているのか。
 いとおしげに、眠る少女の安らかな顔を一瞥し、起こさないようにゆっくりと、晶はリビングを後にした。
 それほど長くもない廊下を歩き、階段にさしかかる。注意して上らないといけなかった。足を踏み外せば、二人揃って転げ落ちる。そろりそろりと階段を上っていく。
「……ふぅ」
 上りきって、一息。
 桐花の部屋は、二階の奥にある。晶は自分の部屋を通り過ぎて、そちらに向かった。
 ドアにはただ『桐花』とだけ彫られた簡素な木のプレートがある。桐花を抱えたまま器用にドアノブに手をかけて、回す。鍵はかかっていなかった。
 ドアを開ける。灯かりをつけようとしたが、スイッチはドアノブよりやや高い位置にあるため手が届かない。諦めて、そのまま部屋に入る。
 雨が止んでいたのは幸いだった。雲の切れ目から月が覗いていて、窓から月光が差し込んでいる。お陰でとりあえず足元を気にせず歩ける程度には視界がきいた。
「よい……しょ、と」
 ベッドの上に、桐花の身体を下ろす。どうやら相当眠りは深いらしく、桐花はまったく目を覚まさない。
 無防備な寝顔。そこに、いつもの気丈な桐花はいない。ただ、一人の少女がいるばかりで。
 ふと、その唇を奪いたくなる衝動に駆られる。その、柔らかな唇を、自分の唾液で穢してしまいたくなる。いや、唇といわず全身を、この手で蹂躙したくなる。壊したくなる。ただ、自分の色で染め上げたくなる。
 だがあくまで駆られるだけだ。こういう昂ぶりには慣れている。
 薄手の毛布を胸元までかけてやって──毛布からはみ出した手を取り、その甲に軽く口付けを落とす。
「おやすみ、桐花」
 晶は部屋を後にした。
 ──それから数分と経たぬうちに、部屋は濃い闇に包まれた。月が雲に隠れたわけではない。
 窓の外に立つ──いや、浮かぶその人物は、全身ずぶ濡れでそこにいた。水を含んだ着物は相当な重さを持つはずだが、その人物は辛そうな素振りも見せない。
 そしてしばらく桐花を見続け、やがてその人影は、翡翠色の翼を振って、夜の闇に溶けていった。

 懐かしい夢を見た。
 八年前、僕がこの町に来たばかりの頃の夢。
 そこで彼女は笑っていて、僕も一緒に笑っていた。
 けれど夢の終わりでは、彼女は泣いていて。
 僕は酷く無表情に、その身体を抱き締めていた。


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