泣くじゃくる少女の、手を引いて家に帰った。
女の子は、ずっと泣きながら手を離そうとしなかった。
E. 天の羽衣/Cruelty as the cause of youth.
そうして彼は闇に落とされた。
アレが如何なる手段を以てそうしたのかは分からないが、ともかく自分の魂は深い深い『闇』という概念の中に突き落とされたのだ。
何故自分が概念というカタチのないものの中に突き落とされたのかは考えなかった。アレは真性のバケモノだ。自分が知り得る限りで最も不滅に近い存在。アレと相対してしま ったことを、彼は今更ながらに後悔した。
互いに十二の使役魔を使い全身全霊を賭して戦った結果、自分の使役魔も相手の使役魔も全て死に絶え、そして最後に彼は敗れた。否、初めから敗れていたのだろう。アレは明らかに、自分がどこまで立ち向かえるかを愉しんでいた。
その結果が、これだ。
落ち着いてはいたが、それは虚勢だった。何かを思考していないと恐怖で狂いそうだった。ここから抜け出す方法を考えた。だが魂だけで何ができるというのか。声も出せず手も伸ばせない状況で──最後に彼は悟った。
自分は闇に触れている。
ならばそれを操れぬ道理はない。
それは破綻したロジックだったが、それでも彼の支えにはなった。
そして彼は闇を編み始めた。意志だけで闇を掻き集め、カタチのないものにカタチを与える作業。それはいつ終わるのかも、ましてや意味があるのかさえ分からない、気の遠くなるような作業だったが、それを繰り返している限り彼は狂わなかった。──或いはそれを繰り返せる時点で彼は既に狂っていたのか。それは誰にも分からない。
時間的感覚など既にない。一心不乱に闇を編み続け、いつしか確かな手応えを感じるようになった。妄想などではなく、確かにそれはあった。狂喜して彼は更に編み続けた。
──そうして編み上げた闇は、彼の意のままに従った。
彼は概念であるが故に無限の広がりを持つ『闇』の一部を、確かに自分のものとしたのだった。
闇を通して、久し振りに外界を知った。自分が落とされたのは獣しかいない山奥だったはずだが、今は近くに村があった。話を聞く限りでは、あの時から既に七〇年以上が経過しているようだった。
彼は今度は肉体を求めた。闇を人型に形作ることもできたが、闇だけに光の強い場所では存在できないらしかった。つまり肉が必要なのである。
再び長い年月をかけて、彼は肉体を作り出した。当時は知らない言葉だったが、彼は空気中の分子や周囲の自然を始めとする有機物を己の在する闇の中に取り込み、形作っていった。何度も何度も失敗を繰り返し、三十年が経つ頃には、元の自分の身体が出来上がっていた。
だが彼はもう人間ではなかった。闇に沈み、闇を編み、闇から黄泉還って得た自分は、もう死ぬことができなくなっていた。否、滅びることができなくなっていた。
彼は、不滅となったのである。
何度肉体が滅びようと、闇の中に自分はあった。闇に触れすぎたがために、闇の中に自分は片足を突っ込んでいたのだ。抜け出せてなど、いなかった。
いつも自分以外の者が死んでいった。どこにいても、皆自分より先に滅びてしまう。いつも自分だけが取り残される、耐え難い孤独。
闇は概念である。故に、『闇』というものを『認識』する世界がある限り、その中に在る彼も同様に滅べないのである。
絶望した。死ねぬということが、滅べぬということがこれほど苦しいことであるとは思いもよらなかった。いっそ、本当に狂ってしまおうかと思った。いや、実際に何度か狂った。だがそれも許されなかった。手懐けた闇は、自分と同調しているがために、自分の記憶を随時記録し続けたのである。故に、狂って精神が壊れても、闇は壊れた主を治そうと、自動的にその修復を行なってしまうのだ。
死ねない。狂えない。壊れられない。──それは、何ものにも勝る絶望。
──私がおります。
その時、声が聞こえた。誰だ、と問い返せば、声はあなたの闇です、と答えた。
編み上げた闇は、いつしか自我を持っていた。聞けばそれは、自分の魂に触れていたがために、いつしかその影響を受け、人格を持ったのだという。付喪神のようなものです、とそれは言った。
──私はいつもあなたの傍におります。あなたが寂しいのなら、私はあなたを慰めましょう。寒いなら暖めましょう。私は、あなたのものですから。
そんなことをそれは言った。柄にもなく涙が出た。これでもう、少なくとも独りではないのだから。
そして彼は、それに名前を与えることにした。しばらく悩んで、こう名づけた。
──お前の名は『クラシキ』。闇を織り上げて作ったのだから『暗織』。そして、俺の記憶をずっと記録し、俺と共にいる『苦楽私記』だ。
──はい。
そうして闇は『倉敷』の名を与えられ、永劫に芦屋道満の傍にいることを約束した。
もう今は、遠い昔の話である。
「──久しいな、安倍晴明」
「うん、ほんと久し振りだね。百二十年振りかな」
にこやかに笑いながら、少年は言った。腕には、一人の少女を抱えている。
歳は二十歳に少し届かぬ程度であろうか。少なくとも芦屋よりは年下に見えた。白い着物に尖った烏帽子という出で立ちは、平安時代の陰陽師の典型的なスタイルである。
抱えられている少女は、肩から先が鶴の羽に変じていた。脚は膝から下が奇妙に細く黒ずみ、尖った指は三本しかない。間違いなく芦屋が殺戮していた“姑獲鳥”の一人だった。
芦屋の左右に、黒い塊が現れる。主の敵を認識し、ぎちぎちと、“歯狂”は威嚇するように歯を軋ませた。今にも飛び出さんばかりの歯狂を手で制しながら、芦屋は言う。
「簡潔に言う。その娘を引き渡せ」
「それは、お断りするよ」
静かに首を振る。
「僕がこの子を見つけたのは──いや、正しくは見つかった、か。高みの見物を決め込んでいたら、この子が僕を見つけちゃってね、そしてこう言ったわけさ。『助けて』と。だから僕は助けてあげることにした」
「だが、それは俺がそいつを殺さない理由にはなり得ない」
「僕が彼女を殺させない理由にはなる。それに──」
微笑を浮かべ、晴明は続ける。
「この子まで死んでしまっては、この“姑獲鳥”の群れは全滅してしまうからね」
「そんなことはどうでもいい。群れひとつなくなったところで、何かしらの影響が出るわけでもあるまい」
「まぁ確かにそうだけど。でも助けを求められて助けないってのは、道徳に反するし」
「お前が言えたセリフか」
苛立ち気味に芦屋は答えた。
「ああ、でももう一つ理由はあるよ。この子がここで生き長らえれば、君を殺しに来る」
「……それが理由か」
さも面白くなさそうに、憮然と芦屋は答える。
「ちょっとした嫌がらせさ。というか暇潰しかな。いかに僕達が不滅階級者とはいえ、百年とか二百年とか無為に過ごせるほど僕達はできてないだろう?」
「確かにな」
これには芦屋も頷く。彼があの機関に属し続けているところも、ひとえにその部分が大きい。もっとも芦屋の場合、闇の中にいるだけで時を忘れることもできるのだが。
「だから僕はこの子を生かそうと思う。この子が目覚めて、この惨状を目にして、何でこうなったのかと問うたら、僕は全てを教えよう。誰がこうしたのかと問うたら、僕は君の名を告げよう。その瞬間から彼女の復讐が始まる。一族を皆殺しにし、未来を破滅同然にした芦屋道満、君に対しての。君にとっては退屈な復讐劇。だけどこの子にとっては生き甲斐になる。その様を見るのは、僕にとってとても楽しい」
「結局愉快犯なのだな、貴様は」
くすりと意味深に、晴明は笑った。その身体は、もう半分以上が霞んでいる。
「とりあえず今は避難させてもらうよ。本当は、もう少し語り合いたいんだけどね」
すぅ、と霧が引くように、晴明の身体が腕に抱いた少女ごと薄れていく。
「待て」
それを芦屋が呼び止めた。晴明は半透明の状態のまま、何? と問い返した。
「今回のことも……お前が原因なのか?」
「違うよ」
否定する。
「これは僕が撒いた種じゃないよ。確かに、僕が望みそうな結末ではあるけれど。たまたま面白い出来事に遭遇して、君への嫌がらせの手段を手に入れただけさ」
明るく晴明は言うが、芦屋は険しい表情を崩さない。
「やれやれ、信じてないみたいだね。……でも本当のことだよ。今回ばかりは、僕は……あ? 何?」
唐突に言葉を切って、空を仰いで晴明はそのまま芦屋には聞こえぬほど小さく、ぼそぼそと何かを呟いた。
「……ああ、そうか」
視線を芦屋に戻す。
「ごめん、さっきの取り消し。どうやら、僕も少しだけ関係してるみたいだ」
申し訳なさそうに苦笑して、晴明。
「とはいえ、関わったのもずっと前だし、それも間接的なものだし……関わったのは、桐花達にじゃなくて、晶……だったかな。彼のほうだけどね。だよね? 塁天」
ここにはいない誰か──何かに、彼は呼びかけていた。
「……どういう意味だ?」
怪訝に眉を寄せる芦屋に、しかし晴明はくすりと微笑み──
そして、かつて彼を闇の中に突き落とした男の姿は、完全に掻き消えた。
──またそのうち。我が友よ。
声だけが、その場に響いた。
「誰が友だ」
不愉快な口調で吐き捨てる。ふぅ、と息を吐き、木の幹に背を預ける。
──ご主人様。
それまで沈黙していた“倉敷”が、唐突に口を開いた。
「何だ」
しばしの、間。
──……雨、止みそうにありませんね。
「そうだな」
そんなことを“倉敷”が言いたかったわけではないことくらい、芦屋には分かっている。だがそれを追求する気も、最初からなかった。
しばらく、芦屋は木々の隙間から覗く雨の空を見上げていた。
§
「うーん……」
唸り声。
「待ったはありですか?」「なしだ」
そして即答。
「はい、チェックメイトです。芦屋様の勝ちですね〜」
横で見守っていたメイド服の少女が、判定を下した。
「はぁ……相変わらず強いですなぁ」
「伊達に千年生きてはいない。またやるか? 今度は将棋でも構わんが」
「やめときます」
苦笑と共に、丁重に高峰は断った。ちょうどそこに、芳しい匂いが流れてくる。
「コーヒー入れてきたわよ」
微笑みながら、笹垣はトレイを置いた。
「約束だったわよね。二日ほど遅れちゃったけど」
「ああ、すまんな。いただこう」
芦屋がまず受け取ったのを皮切りに、各々がカップを取る。芦屋はブラック。高峰はミルクのみ。笹垣はミルクと砂糖の両方を入れる。そして──
「……倉敷も、コーヒー飲めたんだっけ?」
芦屋と同じくブラックでコーヒーを飲むメイド服の少女に向かって、笹垣は言った。
「あ、その言い方は少し酷いです」
少し傷ついたような表情を見せ、少女──“倉敷”は返した。
「私だってコーヒーぐらい嗜みます。芦屋様と一緒に千年以上ずっと生きてきたんですからね、食事を楽しむぐらいのことはしますよ」
「そうだったの……初めて知ったわ」
素直に驚いて、笹垣は言う。高峰は前から知っていたのか、取り立てて反応を見せない。芦屋との付き合いは、高峰の方が長かった。高峰は五年。笹垣はまだ二年である。
「そういえば……」その高峰が、思い出したように声を上げた。「桐花さんのことについてですが」
「何か分かったのか?」
高峰は頷き、話し始めた。
「桐花さんの、本当の母親の祖母──彼女の曾祖母には、十六歳以前の記録がありませんでした。孤児だったようですが……しかし本当に何も残っていないというのは、流石に異常です。何やら、妙な噂も付きまとっていたようですしな。雨風を予見していたとか。当時の陰陽寮も、そのことで彼女をマークしてたそうですがね、彼女の過去は分からなかった、と」
「成程……『霊視』の結果から見ても、やはり、“姑獲鳥”と見て間違いあるまいな」
あの事件から既に三日が経っていた。『保護』された晶は唐高病院担ぎ込まれ、柿崎の執刀による緊急手術を受けた。──あまり、意味はないようであったが。
その時、晶の付き添いとしてきていた桐花を、芦屋は見た。その時胸がざわつくのを感じ、試しに桐花を『霊視』したのだが──
──混ざっている。
『霊視』の先に見えたものは、異質な血の流れであった。それも二つ。片方は、“姑獲鳥”としての血。そしてもう一つも“姑獲鳥”のようだったが、それは明らかに桐花の“姑獲鳥”の血とは違うものであった。──即ちそれは、別の“姑獲鳥”の血が、桐花に流れているということである。そして“姑獲鳥”は、直接子供を作らない。
つまり──彼女の祖先に、人間と契った“姑獲鳥”がいるということである。
「となると、隔世遺伝というヤツですかな」
高峰の言葉に、芦屋は頷く。
桐花が異常に風の扱いに長けていたのも、これで納得がいく。彼女は元より、“姑獲鳥”としての素質を兼ね備えていたのだ。それが偶然にも、蓮花に攫われ“姑獲鳥”になったことにより、その素質が開花してしまった。
「正に、運命の悪戯ってやつね」
感慨深げに、笹垣が言った。その言葉で、高峰は思い出す。
「そういえば、晶君はどうなったんですかな。もう三日ですが……」
まだ意識が戻らないと高峰は聞いている。
「身体のほうは何も問題はない。眠っているのはただ単に疲れたからだろうな。まぁ、あれでは……無理もないか」
あの時の光景を思い出して、芦屋は感慨深げに呟いた。高峰も同意し、頷く。
高峰は“歯狂”の上から、確かにそれを見ていた。芦屋も同じだろう。一条の稲妻が、竹林を貫いて山の斜面を駆け上った光景を。そこに着いた時、稲妻が貫いた場所は、綺麗なまでに竹が焼き尽くされていた。
そして晶の回復力にも、異常なものがあった。柿崎の診断によれば、肩から斜めにはしっていた痕は、確かに心臓まで達していたという。だのに、病院に担ぎ込まれた時には、もうほとんど細胞がくっついていたそうだ。それでもかすかに残っていた傷跡がなければ、柿崎もとても晶が怪我をして担ぎ込まれたなどとは思わなかっただろう。
「どこかに“雷獣”の血でも流れているのかもしれんな、あれは。おそらくは、桐花の影響で覚醒したのだろうが」
“雷獣”とは、落雷と共に地上に現れるとされる神獣種である。だがその姿を実際に見たものはほとんどおらず、またいても故人であったりと、半ば伝説上の存在とされている怪異だ。──芦屋自身、遠目にそれらしきものを一度見たことがあるのみで、あれがそうであるのかは分からない。
「かたや、風を自在に操る、“姑獲鳥”の少女。かたや、雷を身に纏う、“雷獣”の血を引くやもしれぬ少年。つくづく、数奇な巡り合わせですなぁ」
うんうん、と感慨深げに、高峰は頷く。
「そういえば柿崎先生、もっと詳しく調べたいとか言っとりましたなぁ。晶君を。どうせ眠ってるんですし、少し血をいただいて、差し上げましょうか」
呵呵と笑いながら、高峰。芦屋はそれを聞き流し、コーヒーを飲み干した。
「──行くぞ」
立ち上がる芦屋に、高峰は訊く。
「どこにですかな?」
「病室だ。──どうやら、目を覚ましたらしい」
そして、部屋には笹垣と“倉敷”だけが取り残された。どちらも、喋ろうとはしない。
沈黙の中で笹垣は考えた。芦屋に感じた悪い『予感』、あれは、一体何に向けられたものなのかと。
芦屋は、安倍晴明に会ったと言った。前に、ライバルというか怨敵というか、会いたくない相手だな、と言っていたのを覚えている。少なくとも、会って芦屋が多少なりとも不愉快になったのは確かなようだった。
『予感』が示す芦屋の身に起こる災難とは、それなのだろうか。それとも、まだ来ていないだけで、もっと酷いことを示すのだろうか──
そんなことを、笹垣は考えた。
「────────倉敷」
はい、と少女は答えた。
「芦屋を守ってあげてちょうだい。何があっても、どうなっても。──私には、無理だから」
果てしない時を超える術など持つはずもなく、彼への想いは永劫に届くこともなく。
胸に仕舞いこんだままにそれでも捨てることもできずに。
「──言われなくても、守りますよ」
ふ、と笑い“倉敷”は言う。
「でも、私にだってできないことはあるんですよ。私は、本物の暖かみを与えることができません。私は、闇ですから。ですから、ご主人様を暖めるのは、あなたの役目です」
悔しいですけど、と“倉敷”は続けた。それにつられて、笹垣も笑う。
「そう──そうね。それでも、悪くはない、か」
それきり、二人は喋らなくなる。しかし訪れた沈黙は、先のものより少しだけ暖かかった。
§
八年前のその日、その少女と出会った。
黒い髪、黒い瞳、黒い着物、そして、黒い翼。そのどれもがとても美しかったことを、僕は覚えている。
遊ぼうと彼女が言ったから、僕はそれに応じた。引っ越してきて初めてできた、僕の友達だった。そしてそのまま、日が暮れるまで遊んでいた。
また明日、と言って別れた。家に帰り着く頃にはもう暗くて、母さんにとても怒られた。
次の日もまた遊んだ。何をしたのかまでは覚えていないけど、彼女が遊ぶ時、その黒い翼を外すのだけは覚えている。どういう仕組みなのか、その子の腕は、取り外したりできるみたいだった。それでもあまり、気にはならなかった。
その日は少しだけ早く帰った。怒られることが怖かったから。
そして、遊び始めて六日目の帰り、彼女はひどく寂しそうな表情をしていた。どうしたの、と訊くと、明日でお別れです、と言った。何で、と言うと、探さなくちゃいけない人がいるんです、とだけ答えた。そう、と僕は頷いて、じゃあ明日はたくさん遊ぼう、と約束して、帰った。
心の中が、ひどくもやもやしていて、気持ち悪かった。
次の日は日曜日だったから。朝から遊んだ。お昼ご飯も食べずに。そして五時近くになって、最後にかくれんぼをしよう、と提案した。彼女はうん、と頷いた。
彼女が鬼になって、注連縄をされた大きな木の下で、百数えた。僕はその間に──彼女の翼を持って、森の中に入っていった。
ただ離れたくなかったから、僕はその翼を奪って隠した。
百数え終わって、彼女は近くに自分の翼がないことに気づいた。それが僕の仕業だと気づいて、返してください、と言ってきた。僕はそれに、知らないと答えた。何度もそれを繰り返して、とうとう彼女は泣き出した。僕はその頭を、優しく撫で続けた。泣かせたのは、自分だというのに。
泣きじゃくる少女を家に連れて帰った。母さんが事情を聞いて、警察に電話した。その『事情』は丸きり僕のついた嘘だった。少女は引き取られて、数日後どこかの孤児院に入ったと聞いた。
一年後、その孤児院がなくなることになった。事情は知らない。少女は、縁もあってうちが引き取ることになった。
一年振りに会った彼女は、ひどく冷たい目で、僕を見ていた。嫌われているんだな、と思った。
だけどそれで、僕の想いが変わるわけでもなかった。
そして、今に至るという、それだけの話。
ああ、そういえば。
僕はあの翼を、どこに隠したんだっけ────
────────次に目を覚ました時、僕は白い部屋にいた。そこが病室なのだと、知らばくして気づいた。
首を回すと、桐花と──出張中のはずの父さんと母さんがいた。二人とも、何故か目に涙を浮かべている。
僕を抱き締めようとする母さんを、桐花が諌めた。まだ傷が治ってなくて安静なんですから。言われて、母さんは浮いた腰を下ろした。
涙ながらに母さんは話した。その話を聞く限りでは、僕は三日前、通学途中で車にはねられたということになっているらしい。どうやら、高峰さん達が手を回しているようだった。夜になって、父さんと桐花は帰り、母さんが付き添ってくれた。
次の日目を覚ますと、柿崎先生がいた。母さんが、傷の具合はどうですか、と訊くと、大丈夫大丈夫、痕一つ残しはせんよ、と笑って答えていた。昼過ぎに、少し血を貰うよ、と柿崎先生が言って、注射針を刺した。その顔は妙に楽しげだった。面会時間も終わり近くになって、桐花が来た。どうやら父さんと母さんはまた出張先に行かねばならないらしく、その交代として来たようだった。
目を覚まして三日目の午前中、芦屋さんと高峰さんが尋ねてきた。芦屋さんはほとんど喋らず、高峰さんも多くを訊くことはしなかった。無闇に喋るとこちらも疲れるので、ありがたかった。最後に芦屋さんが、色々と大変になるだろうから、それ相応の覚悟はしておけ、とだけ言った。その意味はあまり分からなかった。
午後からは高校の担任の先生が来た。事情は大体聞いているらしく、先生もあまり多くは喋らせようとはしなかった。話の最後に、思い出したように先生は今日が期末テストの真っ最中であることを告げた。退院後は、すぐにテストを受けることになりそうだ。
四日目の午前中は誰もこなかった。午後からは、伸也と咲菜ちゃんが例の果物の盛られたバスケットを持ってお見舞いにきてくれた。大分話せるようになってきていたので、桐花に林檎を剥いてもらいながら、しばらく談笑していた。
そして五日目の夜になって、僕は病室を抜け出した。
胸の傷はとっくに塞がっていたけど、時々鋭い痛みが込み上げてくる。痕はないけれど、この痛みは後遺症としてずっと残るものらしい。断続的に襲ってくるそれを抑えながら、僕はその場所まで来ていた。
完全に崩壊した神社は、ただ広い敷地だけを晒してそこにあった。瓦礫の脇を通り抜け、その裏の御神木の更に向こう、森の奥の、一本の木の下。僕は手に持っていたペットボトルを下ろし、そこを素手で掘り始めた。小雨が降っていて、土は柔らかかった。
「──あった」
思わず声に出す。薄汚れたナイロンの、元は白かったであろう布がそこにあった。よく朽ち果てなかったと思う。子供用のTシャツ。八年前、僕が着ていたものだった。
取り出し、布を剥ぎ取る。その下から、とても美しい黒い翼が姿を現した。八年間土の中に埋まっていたにも関わらず、それはまったく腐ることなく綺麗なままでそこにあった。
僕はそれだけを取り出し、掘った穴の中にまた投げ入れた。そしてペットボトルの中の液体を、その上に注いだ。つんと鼻をつくきつい臭い。ズボンのポケットからライターを取り出し、その辺りにあったまだ濡れていない枯葉を捜して、それに火をつけた。そして火のついた葉っぱを、濡れた黒い翼の上に落とした。
ぼぅっ、と唸りを上げて、朱色の炎が燃え盛った。
黒い翼は炎に包まれ、その形をだんだんと崩していく。
「──燃やしたんですね」
背後からの声に、うん、と答えた。
気配は僕の横を通り過ぎ、火に近づいた。僕はリボンの揺れる桐花の後ろ姿を、静かに見つめていた。
炎は燃え盛り、桐花の翼を灼いていく。これで彼女が、空に戻る術は本当になくなった。
「──やっぱり、覚えていたんですか?」
「いいや。本当に覚えてなかった。懐かしい夢を見てね、それで思い出しただけだよ」
そうですか、とだけ答え、桐花は炎を見つめ続けた。
──僕はふと、ある昔話を思い出した。天女と、それに恋をした男の話。
話の終わりで、天女は男から羽衣を返してもらい、舞を躍りながら天へと帰っていった。
僕と桐花は、とてもそれに似ていると思った。ただ僕が、空を舞うための羽衣を返さなかったという点を除いて。
「──哀しい?」
はい、と少女は答えた。
「──また飛びたい?」
はい、と天女は答えた。
「──僕が憎い?」
いいえ、と桐花は答えて、
「でも、絶対に、許しませんから」
そう言った。
「──それでもいいよ」
そっと、後ろから桐花を抱き締め、その細い肩を両手で抱いて、
「桐花が、僕を想ってくれるなら」
例え憎悪でも怨嗟でも。
桐花は小さく頭を垂れた。それは頷きだったのか、それともただ俯いただけなのか、僕には分からない。
僕の手に、桐花の手が重ねられた。伝わってくる暖かみは、彼女が確かにそこにいることを実感させる。──ここに、いる。
雨は強くなっていき、燻っていた炎は最早煙さえ上げはしない。火煙が煙雨になる。焼け跡には、ただ黒ずんだ少しの炭ばかりが残っていた。
天の羽衣は焼かれて消えて、煙となって天に昇った。だけど天女はそのまま、僕の腕に抱かれている。
これは独占欲の結果。彼女とずっといたいという、僕の呪いにも似た願いのなれ果て。
御伽噺の中で、男は泣き続ける天女を哀れに思って羽衣を返した。
だけど僕は羽衣を返してあげなかった。泣かれても恨まれても──それでも一緒にいたかったから。
この欲求を愛情や恋慕と言えば、そうなのだろう。──無論、男のそれとは全く正反対なのだけれど。
ただ男の場合は、天女を想うが故に返したというだけで。
ただ僕の場合は、桐花を想うが故に奪ったというだけで。
ただ、それだけの相違。──もたらされた結果は、あまりにも違う。
そうして、僕は桐花といる。
だけどそれでも、いつか別れは来るのだろう。互いに不滅でない限り。
だから、ずっと、という言葉はない。絶対に、いつか離れる時が来るのだから。
だから──
顔は見ないよ。耳元で、そっと囁いた。
お願いします。小さな声で、答えが返ってきた。
──だからせめてと僕は願う。
だからせめて、この雨が降り止むまでは。この雨が、桐花の涙を隠している間は。
抱き締めて、いたいと思った。