あしたはもうあえません、と彼女は言った。
 うん、と僕は頷いた。

 心の中とは裏腹に。



       D. 或る母娘の決別/cry cry cry…



 目覚ましは鳴らなかった。
 月曜、晶が起きたのは、朝も八時を過ぎてからである。
 時計を見て、途端に血の気が引くのを理解した。跳ね起き、着替えようとハンガーにかけておいたパジャマを取ったところで──気づく。
「ああ……休み、だっけ。今日」
 すっかり忘れていたが、今日は学校の創立記念日で休みだった。
 じゃあもう一度寝るかな、とベッドに倒れ込もうとしたところで──ドアがノックされた。
「お兄ちゃん、起きてますか?」
「桐花?」
 はい、とドアの向こうの人物は答えた。
「出かける準備をして、リビングまで来てください。なるべく早くお願いします」
 要件だけ告げて、桐花は去った。
 首を傾げながらも、晶はとりあえず着替えることにした。

「ちょっと買い物に付き合って欲しいんです」
 食後の茶を啜りながら、桐花は言う。
「買い物って、何を」
 空になった湯呑みの縁を指先でなぞりながら、晶。桐花は少しだけ沈黙し、
「まぁ、色々と。それより、女性の買い物について詮索するのは無粋でしょう?」
「……そういうもんなの?」
「そういうものです」
 湯呑みを置き、桐花は席を立つ。
「軽く洗い物をして、それから出ます。少し待っててください」
 食器を抱え、桐花は流し台に引っ込んだ。晶は席も立たずに、その背中を見送った。

 電車で桐花に連れてこられたのは、萩間町の更に向こう、稲牧市だった。
 無論のことながら、竹見町や萩間町より広く、施設も充実している。相対的に自然はほぼなく、あるとすれば小さな公園と街路樹程度のものである。
 その並木の下を、晶と桐花は並んで歩いていた。太陽が作り出す影は濃く、熱されたアスファルトがじりじりと揺れているように見える。
「……暑くない? それ」
 前を向いたまま、晶。
 桐花は、ノースリーブの白いブラウスに、膝下まである薄手の紺色のスカートを履いている。肩から下げたポーチは、黄色と白のチェックの入った、飾り気のないものだった。
「特に、襟とかさ」
「ええ、暑いですよ」
 そこで初めて、桐花は答える。そして、半眼で晶を見上げ、
「でも首筋のあれを見られて恥かしい思いをするよりは、マシですから」
 う、と詰まる。
 純白のブラウスの襟の下には、昨夜晶がつけた痕がある。それを隠すために、桐花はこの暑いさなか、襟のある服を着ているのだ。
「……というか、“姑獲鳥”なんだし消えてても良さそうなもんなんだけど」
「ええ。それが余程強くされた・・・のか、全っ然消えてないんですよね」 
 ぎろり、と睨まれ、今度こそ何も言えなくなる。
 対して、晶の指の傷は完全に消えていた。朝、洗面所で固まった血を洗い流したその下には、まるで時間が巻き戻ったかのように、傷一つない手があった。
 不思議と自分の現状を気持ち悪いとは思わない。慣れただけだ。或いは、意識しておらずとも、身体は、脳は、それを知っていたからなのか──
 自分はとっくの昔から、既に今の状態ではなかったのか。最近は怪我らしい怪我もしていなかったから、この異常な治癒力に気づかなかっただけではないのか。異常な動き、異常な視力も、ただ今までとりたて使う場面がなかったために、自分の意識がそれを知らなかっただけではないのか。
 自覚しなければ、力は使えない。生物は自らに手があり、足があることを知ってから、それを使うのだから。
 気配を探る能力には、かなり前から気づいていた。いや、気づいた時には使っていた。壁越しに、そこに誰がいるのかくらい、分かっていた。
 そんな自分が変なのだと気づいても、さして驚かなかったのを覚えている。
 ──やはりこれは慣れなどではない。自分の知らない変化を、自分の脳と身体は知っていたのだ。だから、あの邂逅で自らの異能を自覚しても、あまり驚かなかったのではないのか。あれは外部からの情報として知ったのではなく、自らも知りえない記憶の底から引き上げられた、内部の情報を思い出したに過ぎないのだから。
 つまるところ冴島晶という人間は、とうの昔にヒトではなかった。
「──どうかしたんですか? お兄ちゃん」
 頭一つ下から桐花が覗き込んできた。自分はそんな、心配そうな表情をされるくらいに変な顔だったのだろうか。
「いや、何でもないよ。ちょっと考え事してただけだから」
 とりあえず苦笑してみせて、言った。納得したのか、察して追及しないのか、そうですかとだけ、桐花は応じた。
(心配かけちゃ、駄目だよね)
 ふぅ、と一息し、晶は考えるのをやめた。気づいて、苦笑する。ここ最近、考えてはやめるの繰り返しだ。多分、怖れているのだと自覚する。
 思考の末に行き着く先が怖いのか、思考すること自体が怖いのか。さて、それすらも分からない。
「──お兄ちゃん、ここ入っていいですか?」
 再び思考の淵に沈もうとしていた晶を、桐花の声が呼び戻す。
 桐花の指先は斜め上を差している。その方向には赤い看板があり、店の名前が書いてあった。一度視線を落とし、その店を見る。ショーウィンドウがあり、そこにはきらびやかな服を着せられたマネキンが数体、それぞれポーズをとって並んでいる。どうやら女性向のブティックのようだった。
「別にいいよ。そもそも今日は桐花の買い物だろ?」
 ほら、と桐花を促す。桐花は頷き、中に入った。
 いらっしゃいませ、と店員の明るい声が響く。晶は特にすることもなく、ただ桐花の後について回った。
 店内をゆっくり二周ほどしたところで、
「ちょっと試着してきます」
 と桐花は、店の奥の試着室に引っ込んだ。晶はその場で立ち尽くし、桐花を待った。
 ……相当気まずい。客は自分達の他には二、三名しかいないが、それでも男一人でこんなところに突っ立っていると中々気まずいものがある。
「──恋人さんの付き添いですか?」
 突然後ろから声をかけられて、驚きつつも振り返る。そこには、小柄な女性店員の姿があった。年齢は二十を少し過ぎたところか。
「……ああ、いえ、妹です」
 先程の言葉を思い出し、それに答えた。
「はぁ、その割には仲がよろしいんですね。傍から見ると恋人同士ですよ、ほんとに」
 何故か感心したように、女性は言う。晶はそれに、曖昧な苦笑を返す。
 ──むしろ、それを望むのだけど。
 口には出さずに、言う。
「……本当にご兄妹なんですかぁ?」
 んー、と口元に手を当てながら、覗き込むように晶を見上げる。
「ええ、一応」とりあえず戸籍上はそうなっている。「年が一つしか違いませんからね、よく間違われるんですよ」
「あ、そうだったんですか」
 ようやく得心がいった、という風に、女性は手を叩いた。
「妹さんとデートですか。羨ましいですね」
 …………まぁ、いいか。それに、一応デートには違いあるまい。敢えて晶は突っ込まないことにした。
「それでしたら、何かプレゼントなされてはいかがですか? アクセサリ類も少量ですが取り扱ってますよ」
 何気に商売熱心だ。が、ちょうどそこで他の客のお呼びがかかり、彼女はその方向に「はーい」と返事をした。
「それではまた。是非何か買っていってくださいね」
 会釈ながらに念を押し、女性は客の所に早足で駆けていった。
「プレゼント、ね」
 そう言えば自分は、今まで一度でも桐花に何かをあげたことがあるだろうか。数年前までは誕生日などの度に何かあげていた記憶があるが、ここ最近では何もない。さすがに恥かしい、というのが本音である。
 何気なく、辺りを見回し──それが、目に止まった。
 しばしの逡巡の後、晶はそれを手に、レジに向かって歩き出した。

 桐花が試着していた三着のうち二着を買って、店を出た。その頃にはもう正午近くで、二人は近くの喫茶店で軽い食事を済ませた。
 午後からも適当に街を歩いて回り、時折様々な店に立ち寄る。荷物は全て、晶が持つことになった。
 あまり知らない道を歩く。平日のためか、すれ違う人は少ない。
 普通の日常。
 流れゆく時間。
 人間だけの世界。
 人外のいない空間。
 いつまで、ここにいることが許されるのだろうか。漠然と、晶は思った。

 市街が一望できる場所に、二人はいた。
 夕日が、遠い山の向こうに沈んでいく。斜陽に照らされるビル群は、まるで墓石だ。
 とある大手デパートの屋上だった。いわゆる屋上遊園地というやつだが、閉店間際なためかもう誰もいない。
 背の高いフェンス越しの視界の中で、全てがオレンジの海に沈んでいく。桐花はフェンスに手をかけ、その光景に見入っていた。晶はとっくに飽きたのか、フェンスに背を預け先程買った缶コーヒーをちびちび飲んでいる。足元には、紙袋が三つ。全て桐花の買ったものである。
 眼下では、おそらく帰宅途中であるのだろう、車の群れが血液のように絶え間なく流れていく。その喧騒がとても遠くに聞こえた。
 言葉を交わすこともなく、しばらくそうしていた。
「────────桐花」
 口を開いたのは、晶だった。視線の向きは変わらない。
「何ですか?」
 同様に振り返りもせず、桐花は応じた。
「昨日の返事、聞いてなかった」
 それだけ、晶は言った。
「……それ、今すぐ答えなきゃいけませんか?」
「さて、ね。桐花がいつか、きちんと答えてくれるなら、待つけど。……ああ、でもさすがに十年二十年とかは勘弁だよ」
 小さく笑いながら、晶はコーヒーを飲み干す。
「なら、もう少し待っててください。ちゃんとそのうち、答えますから」
「うん、待ってる」
 桐花の視界の端から、晶が消えた。
「動かないで」
 後ろから聞こえた声は妙に優しい。素直に、それに従った。
 晶の手が、桐花の手に触れる。桐花は動かず、されるがままに待っていた。
「──いいよ」
 晶が一歩下がる。振り向いた桐花の頬に、何かが触れた。手を伸ばすと──指先には、白いレースのリボンが握られていた。
「これ、は?」
「プレゼント。安物で悪いけどね」
 照れ笑いを浮かべながら、晶は言った。
 純白のリボンが、桐花の髪をポニーテールに結い上げている。黄昏の風は、ひらひらと、黒い髪と白いリボンとを揺らす。背中の太陽が、彼女のその髪を照らし、きらきらと綺麗に輝かせた。
「うん。凄く似合ってる。やっぱり白にして正解だったね」
 満足げに晶は頷く。
「そんなに……似合ってますか?」
 顔を赤らめて、桐花は言う。
「似合ってるよ。本当に」
 ストレートに言われ、桐花は更に顔を赤くする。
「……大事にします」
 俯いたままそう言った桐花の頭に、晶は笑顔を浮かべながら軽くぽんと叩いた。
「そろそろ帰ろうか。このお店ももう閉まっちゃうみたいだしね」
 晶は言いながら、紙袋を右手に二つ持つ、左手に一つ持とうとして──代わりに暖かいものが触れた。
 最後の紙袋は、桐花の左手が持った。右手が、晶の手を握り締めていた。
 呆然とする晶から、桐花はぷいと視線を背ける。
「帰るんならさっさと帰りましょう。私はこんなところに締め出されえるのなんて嫌ですからね」
 伝わってくる手の温度は、妙に高い。
「──はいはい。それじゃ帰ろうか」
 くすくすと笑いながら、二人は屋上を後にした。

 その時の、どうしようもないくらい綺麗な夕暮ればかりを、覚えている。

 家に着いたのは七時を過ぎてからだった。素早く桐花は夕食の支度に取り掛かり、その間晶はリビングで暇を持て余していた。
 食事の最中も、桐花はリボンをつけたままだった。気に入ってもらえているようで、晶は嬉しかった。さすがに入浴時には外されたが。
 風呂から上がり、晶は自分の部屋で机に向かった。明日からはまた学校がある。予習や宿題をすませなければならない。
 日付が変わって、ようやく終わった。伸びをすると、背中がごきごきと鳴った。
 時間割まですませて、ベッドに潜り込んだ。
 昼間歩き回って疲れた。今日も、ぐっすり眠れそうだった。


               §


「────」
 鏡の中の自分は、彼が言うほどに綺麗ではないように思えた。
 普段はストレートの黒髪を、今はポニーテールにまとめている。大きく蝶々結びをしたリボンだけなら、確かに可愛いのだが。
 だが、今の心構えに、綺麗だとか可愛いだとか、そういった形容詞は似合わない。無論それを体現しているリボンも。死地へ赴くならば、いっそ死に装束なり喪服なり着ればいいのだ。
 だがそれでも、桐花はそのリボンを外そうとは思わない。お守りや願掛けといった大層なものでもない。ただ純粋に、これを貰った時は嬉しかった。だから──死ぬ時は遺品になどせずに、せめてこれだけは、地獄の底までも持って行きたい。ただそう思ったから。
 一度目を閉じ、そして開く。──鏡の中の女は、とても怖い顔をしていた。
「……ひどい顔」
 鏡の中の女が自嘲の笑みを見せる。それを見届けて桐花は立ち上がり、部屋の隅の洋服箪笥に手をかけた。
 中には、厚手の布でくるまれた箱が二つ、あった。丁寧に布をはがし、箱を開ける。
 漆黒染めの、単の着物がそこにあった。上から下まで全部黒で、まさしく喪服の雰囲気を漂わせている。サイズは明らかに子供用──一〇歳前後の少女が着るような大きさである。──かつての桐花の、“姑獲鳥”だったころの、着物だった。
 ふ、と笑みを浮かべ、丹念にそれをもう一度箱にしまい、布でくるむ。今度はその右の、やや大き目の箱の方を手に取った。同じように布をはがし、箱を開ける。
 立ち上がりながら、桐花はそれをばさりと広げた。
 上から墨を流したように淡く黒に染まり、所々に蛍を思わせる薄緑の斑点がある。裾や袖口は、白い色が炎のようにゆらめきたっていた。数年前、母に──今の人間の母に買ってもらった浴衣だった。
「ちょっと、華やか過ぎるかもしれませんけど」
 微苦笑して服を脱ぎ、皺をつけないよう丁寧にそれを纏った。
 部屋を出る。廊下は暗い。今夜は月が出ていないから、尚更。
 ぺたりぺたりと、足の裏の皮膚と板張りの床とが触れる。
 午前二時。丑三つ時。あの日、あの夜、蓮花と再会した時間帯。
 廊下は軋まない。皮膚と床板が密着し離れる音だけ。静かな足音。
 ──ぺたり。
 その足音が、止まった。晶の、部屋の前で。
「──ごめんなさい、お兄ちゃん」
 ドアに向かって、桐花は言った。
「私、いくつも嘘ついてました」
 それは懺悔だった。
「今から、蓮花と戦ってきます。一週間後なんて嘘です。本当は、今夜でした」
 懺悔は続く。
「自分だけなら傷ついてもいいっていうのも、嘘です。本当は私だって、死にたくない。死にたくなんかない」
 罪を悔いるように。
「逃げちゃ駄目というのも、自分に嘘をついていました。いっそ本当に、全てのしがらみから抜け出して、あなたと一緒にどこまでも逃げたかった」
 贖うように。
「今日──いえ、昨日の買い物も、本当は取り立てて買いたいものなんてありませんでした。ただ、あなたと一緒に、いたかったから」
 拭うように。
「それと……」
 少しだけ、口ごもる。
「──私は、あなたが嫌いじゃありませんでした」
 少し、間を置いて。
「憎んでも恨んでもいませんでした。ただ、そうしないと私は私でいられる自信がなかった。翼を奪ったあなたを憎むこと以外、私は私を支える術を知らなかった。──本当は、こんなこと、ずっと前から気づいていたんですけどね」
 声に、寂しそうな苦笑が混じる。
「自分で自分を否定し続けてきました。馬鹿ですよね、これって。私はただの意地っ張りだっただけです。嫌いでもないあなたを嫌って、拒絶して……ほんと、馬鹿みたい……」
 俯いて、くつくつと笑みを漏らす。
 ぱたっ、と、足元に水滴が落ちた。
 笑い声はいつしか嗚咽に変わる。その場に膝をついて、桐花はぽろぽろと涙をこぼし続けた。
 それは、八年振りに流す涙だった。
 どこからか別の自分が今の自分を眺めているのを、桐花は自覚した。
 子供のように泣きじゃくっている自分。不思議だな、と思う。涙など、とうの昔に流し尽くしたと思っていたのに──

 嗚咽は、波が引くように小さくなって、消えた。
 膝と手をついた姿勢のまま、桐花はそのまま動かなかった。
「────そろそろ行きますね」
 呟きながら、立ち上がる。
「朝の六時までには帰ってきます。朝ご飯は何がいいですか? 残り物のスパゲティもありますから、それにしましょうか。今日はちゃんと早く起きてくださいね。折角暖めても、冷めちゃったら意味ないですから」
 無論、答えてくれるはずもない。晶は今頃、夢の中をたゆたっているのだろうから。
「──ああ、そういえば、まだ答えてませんでしたね」
 不意に顔を上げ、桐花は微笑んだ。
「私も、本当は、本当に、あなたのことが大好きです。晶」
 照れますね、と桐花はこめかみを掻いた。
「それじゃそろそろ行ってきます。安心して待っていてください。──さようなら」
 桐花は身を翻し、廊下の突き当たりの窓に歩いた。鍵を開け、窓を開く。
 心地良い夜風が流れ込んでくる。その中に身を躍らすようにして、桐花は飛び立った。

 僕はその気配を黙って見送っていた。
「──帰ってくるつもりなら、さよならなんて言うもんじゃないよ、桐花」
 身を起こし、ベッドから抜け出て、着替える。部屋を出て、階段を降り、電話の前に立つ。受話器を取り、一一桁の番号を押した。


               §


 ばさぁっ、と後方で音がする。
「──稲葉か。何用だ」
 蓮花は振り向かずに問う。彼女の後ろには、雀と同じ色の翼を持つ女性が佇んでいた。
「長から伝言ですわ。いつになったら仕留めるのか、と」
「もうすぐだ。今夜、この場所で」
「なら構わないのですけれど……しかし、あなたにしては随分と仕事が遅いですわね?」
 言葉は丁寧ながら、明らかな侮蔑を含んだ声。蓮花は取り合わず、無視を決め込む。
「あんな化物に、母娘の情でも、未だにおありですか?」
「まさか」
 それだけ答える。
「なら、構わないのですけれど」
 先程と同じ答え方。どうしてこの女はこう、人の神経を逆撫でする物言いしかできないのか。昔からのことなので最早苛立ちも浮かばない。
「それでは、性急にお願いしますわ。性急に、ね」
 くすくすと陰鬱に笑って、姑獲鳥は飛び立った。
「ふん──怖いだけだろう。お前達は。本当に桐花を殺そうと思うなら、総出で行けば良いだろうに」
 充分聞こえぬ距離になってから、桐花は呟く。
 そう──所詮、姑獲鳥達は桐花を恐れている。それを、親としての責務というオブラートに包んで、彼女達は蓮花に押し付けているに過ぎない。蓮花が倒れれば、それこそ桐花を斃せるものなどいなくなるというのに。
 ならば最初から全員で殺そうとすれば良いものを、しかし彼女達はそうしようとしない。桐花を怖れ──そして“讖”そのものを怖れているから。
「──哀れだな」
 私も、貴様らも。


               §


 五分と経たずして、黒塗りの車が家の前に止まった。
 晶は一昨日貰った名刺に書かれていた携帯電話の番号から、高峰を呼び出した。用件もろくに述べず「来てください」と言っただけだったが、それでも高峰は快く承諾した。
「お乗りください」
 運転席の高峰が、バックシートのドアを開ける。晶は頷き、乗り込んだ。
 そこではじめて気づいた。助手席に、芦屋が座っていた。
「急ぎましょう。用件は桐花さんですな」
 はい、と晶は返した。車は既に動き出している。
「事情は道すがら聞きます。道案内してください」
 みるみる速度が上がっていく。誰もいないのをいいことに、高峰は法規速度を易々とオーバーしていた。
「手短に言います。桐花と蓮花さんが戦おうとしています」
「それを止めたいんだな?」
 前の芦屋が言った。肯定する。
「分かった。我々とて怪異同士の戦闘による無闇な混乱は避けたい。高峰、急げ」
「もう充分急いどります。無茶言わないで下さいな」
 それでも高峰は更に深くアクセルを踏み込んだ。
「ありがとうございます。──あ、そこ右です」
 礼もぞんざいに晶は指示を出す。滑るようなコーナリングで、黒い車は路地を曲がった。
 晶は必死に桐花の気配をトレースしていた。さすがに疾く、加えてこちらは道に沿ってしか進むことができない。意識を逸らせば、すぐに見失ってしまう。
 そう考えている間にも、桐花の気配はどんどん離れていき──そして、消えた。
「──見失ったか」
 晶の焦燥を感じてか、芦屋が声をかけた。
「慌てるな。とりあえず見失った地点に向かえ。今まで、気配はどの方向に向かっていた?」
「家から北西に向かってほぼ直線に。ここから大体三キロほど離れたところで見失いました。──直線上に何があるか、分かりますか」
 逡巡するような沈黙。そして、
「──分かった」
 助手席のパワーウィンドウが降りた。流れ込んでくる凄まじい風が晶の顔を嬲る。
 器用な動きで、芦屋は窓から身を乗り出した。ウィンドウの縁に足をかけ、今にも飛び出そうとしている。
「一つ、お願いしていいですか?」
「何だ」
 風に掻き消えそうになる声を芦屋は聞きとめ、問い返す。
「桐花を殺さないで下さい。絶対に」
「それと蓮花さんの方も殺しちゃ駄目ですよ。まだ笹垣所長の命令は有効なんですからな」
 横から高峰が口を挟む。芦屋はふぅ、と息を吐いた。
「お前達は俺に喧嘩の仲裁を頼む気か」
「ま、ぶっちゃけそんなとこですな」
 高峰が答えた。
「──仕方ないな、まったく」
 呆れの声を残し、とんっ、と芦屋は飛び立った。
 高く飛翔した芦屋の背中に、前触れもなく漆黒のマントが流れた。
 思わず、晶はその光景に見とれていた。曇天の夜、それよりも更に黒い漆黒の翼──
「こちらも急ぎますぞ」
 高峰の声に、現実に引き戻される。
 路地が終わり、広い国道に出て、車はますます速度を上げた。

 闇に干渉し、意識をその中に溶かし込ます。
 芦屋は闇に触れ、それを操作することができる。その闇が濃ければ濃いほどに、強く。今夜は雲が出ており月が隠れているため、最大限にその能力を発揮できた。
 この能力は、攻撃方法としてはあまり役に立たない。操れるからといって闇は闇だ。それを通じて空間を操れるとて、瞬間移動などができるわけでもない。そもそもこれは、元より武器として身に付けた能力でもない。自身が生き残るために身に付けたものである。その他の活用法としては、せいぜい二つ。闇の中を自在に動き回ることと、今のように闇を通じて気配を探したりする程度のことである。
 そして網のように広げられた芦屋の意識が、それを捉えた。
「──いたな」
 ──……もう対峙してますね。いつ戦い始めてもおかしくありません。
 倉敷の声が頭の中に響いてきた。
「急ぐぞ。力が拮抗している故そう早く決着はつかんだろうが……」
 ──万が一、ということもありますしね。
 首肯し、芦屋は速度を上げた。

 廃棄されたビルの屋上で、二人は向かい合っていた。
「死に装束のつもりか、桐花」
「喪服ですよ。あなたへの」
 開口一番に言った蓮花に、桐花は鋭く切り返した。
「死ぬつもりはない」「それはこっちも同じです」
 ざ、と桐花は右足を引いた。右肘も後ろに下げ、しかし視線はまっすぐに蓮花を捉える。
 蓮花は構えない。否、既に構えていた。翼をだらりと下げた状態が、彼女の構えだ。
「私は晶の所に帰ります。あなたを斃して、ヒトとして生きます。それが紛い物でも」
「私を殺しても意味はない。私が死ねば、群れから次がくるだけだ」
「ならその人も殺します。その次もその次も。最後まで殺し続けて、私はヒトになります」
「愚かだな」一笑。「そんな血塗れの日常が、あるものか」
「言ったでしょう」無表情。「例え、紛い物でも、私は──」
 言葉は、中途で途切れた。
 蓮花は桐花を見ていなかった。全く別の方向に視線を向けている。それは桐花も同じで、無粋な闖入者に意識を向けていた。
 そしてどちらからともなく、その場を離れた。

「────馬鹿な!」
 思わず芦屋は叫んでいた。
 ──見つかった!? そんな、まだ一・五キロ以上離れているはずですよ!?
 倉敷も同じように焦りの色を見せた。ぎり、と芦屋の歯軋りが聞こえる。
「よく考えれば分かることだったな。晶でさえ三キロ先の気配を感じていた。意識を向けていなくとも、我々の気配くらいは感じ取れるだろう。くそっ、失策だ」
 悪態をついて、それでも素早く芦屋は次の行動を考えた。
「高峰達と合流せねばな。晶がいるからおそらくまた追いかけているだろうが、車では間に合わん。俺が運ぶ。倉敷、桐花と蓮花の気配を追え。俺は高峰達を見つける」
 了解の声が返ってくるのも待たず、芦屋は意識を集中させる。さほど時間もかからず見つかった。思った通り、高峰の車は既に気配を追っている。芦屋は降下を開始した。
 車はすぐに見つかった。隣接し、助手席の窓を叩く。高峰が気づき、窓を開けた。
「車を止めろ高峰。今すぐ」
 頷きと同時にブレーキがかかる。甲高い音と共に地面を大分滑って、車が止まった。
「何ですかな?」
「降りろ。俺の方が速い。──出て来い、歯狂」
 ざっ、と倉敷が横に広がった。漆黒に広がるマントの奥から、唸り声が聞こえる。
 ず、とマントの両側から、それぞれ五本の鋭い棘が浮かんだ。ずぶずぶと棘が更にせり出してくる。棘は途中で終わり今度は黒い剛毛に覆われた曲がった柱が浮かんできた。更に浮かんでくると、その柱が下で繋がっていることが分かる。
 それは手だった。黒い爪と太い五指を備えた巨大な両手。手を広げた状態での幅は二メートル近くありそうだった。
 その手の平が横に裂け──昏い孔と、対比するように白い牙が現れた。口だ。
 がちがちと歯が鳴った。久し振りに外に出れたことを嬉しがるように。
「……何ですか、それ」
 半ば呆然と、車から降りた晶は呟く。
「俺の使役魔だ。そう驚くな。行くぞ」
“歯狂”が口を閉じ、手の平を上に向けた。つまりそこに乗れということなのだろう。
「噛まないで下さいよ、歯狂さん」
 ぽん、と手の平の端を叩き、高峰は右手に乗った。晶もそれにならい、刺激しないよう静かに乗った。二人が乗ったのを確認すると、“歯狂”は少しずつ浮き上がり──
「……む」
 その途中で、芦屋が小さく唸った。
「見失ったか。気配を断ったようだな」
「見失ったって、桐花達をですか?」
「ああ」苦々しげに言う。「気配を完全に断っている。その状態で俺が探知できるのは二キロ程度だ。それ以上離れると、もう無理だな」
「──方向は分かりますか?」
「見失ったのは北北東の方向。だが無駄だぞ。奴らめ、俺に探知させないように不規則に飛んでいる。その方向に進んだとしても──」
 そこで芦屋は言葉を止めた。──晶の変化を感じ取ったからだ。
 既に芦屋と“歯狂”は地上から四十メートルほど浮き上がっている。晶はその上で、芦屋の言った方向を見つめている。──緑色に光る、瞳で。
(霊視? ──否、この小僧、実際に『視』ているのか──!)
 驚愕する。自分ですら闇を通じてしか感じられない二人を、晶は見ている。いかに“姑獲鳥”の混じりとはいえ、所詮は半人半妖。そこまでの能力があるわけでもない。だが、晶は確かに、視覚として二人を捉えている。
「……空中で交戦しながら遠ざかってる。──芦屋さん、僕の指示する方向に──」
「行けばいいのだな。分かった」
 疑問はさておき、芦屋は頷いた。気になりはすれ、今答えを見つけずともいいことだ。後で訊くなり調べるなりすればいい。
「しっかりつかまっていろ。振り落とされんようにな」
 三つの影は、夜の闇を駆け抜けていった。

 戦場は、最初から決まっていた。
 八年前、自分が捨てられ、晶と出会った場所。翼を奪われた、あの神社──

 降り立つなり、翼は振るわれた。
 ざぁ、と三条の刃が地を走る。跳躍し、桐花はそれを避けた。追い討ちに二撃。右で迎え撃ち、相殺する。そして左で風を起こし反撃。が、蓮花の翼は易々とそれを払った。
 社の屋根の上に着地する。遠くの蓮花が石畳を蹴って水平に飛び、そして仰角六〇度で跳躍。同時に翼を振り上げる。勢いを加算された翼は凄まじい旋風を巻き起こし、すんでで避けた桐花の横の屋根を一直線に抉った。破片が飛び散って一瞬桐花の視界が奪われる。そこに、蓮花は肉薄した。
 がっ
 直接斬断しようと振るわれた蓮花の翼を、桐花は途中で受け止めていた。纏っていた風の余波が、螺旋状に桐花の腕を浅く切り裂いていく。血が飛び散り、はしる痛みに耐えながら、桐花はそれを押し返す。
「さっきの続きを聞かせてもらおうか。桐花」
 振り乱した朱い髪から、水色の瞳で桐花を見据えて。
 桐花は腕の力を緩めずに、言った。
「──紛い物でも私は、今の私は、ずっとその中にいたいんです」
 望まずして手に入れたものでも、今大切に思えるなら、
「それが私の、生きる世界ですから」
「ふん──一人足掻いたところで、お前はどの道“姑獲鳥”だ。例え紛い物でも、人間の世界など手に入らぬよ」
「一人なら、確かに無理ですね」
 不敵に、笑う。
「でも私には、支えてくれるヒトが、支えたいヒトが、支え合いたいヒトがいますから」
 桐花の右足が上がり──霞む勢いで、垂直に落とされた。
「!」
 足場が瓦解する。ただでさえ老朽化していたところに、先程蓮花が風の一太刀を入れたばかりだ。この程度の衝撃で崩れることは、自明の理だった。完全に不意を突かれた形で、蓮花は雪崩の如く崩れ落ちる社に巻き込まれた。
 一瞬遅れて、蓮花は現状を理解する。翼を振るい、自分に向かって落ちてくる瓦礫を片っ端から吹き飛ばした。がらがらと木造の社は崩れ落ち、闇の中に埃を飛ばした。
 百年以上に渡りそこに立ち続けてきた社は、あっけなくその幕を閉じた。

 その音は、確かに晶の耳にも届いた。
「崩れたな」
 芦屋にも同様に聞こえたらしく、呟いた。さすがに高峰には聞こえなかったのか、首を傾げている。
 じれったい。何が起きているのか分からないだけに、尚更。神社の敷地は竹林に包まれていて、直接視認することができない。そんな状況下で、“歯狂”の速度は苛々するほどに遅く感じられた。だから、
「──先に行きます」
 そう言って、飛び降りた。後ろ、いや、上から芦屋の声が聞こえたが、無視する。人家の屋根に降り立ち、晶は思い切りそれを蹴り飛ばした。
 信じられない速度で、自分が跳んでいるのが分かる。あの時、蓮花の空気の槍を吹き飛ばした時に匹敵する速さで。
 遠かった神社は、もうすぐそこにあった。

 崩れ落ちた瓦礫の上に、蓮花は立っていた。桐花も同じように、離れて立っている。
 ──雨が、降り始めてきていた。桐花の鼻の頭に水滴が落ちるが、意に介さない。
 段々と強くなる雨の中で、互いは互いを見つめていた。
“讖”という名の運命に縛られ、そこに居場所を求める者と、“姑獲鳥”という運命から抜け出して、ヒトの中に居場所を求める者。
 翼のある者と、翼のない者。
 互いを殺そうとする、二人の咎人。
 そして相反する、かつての母と子。
 次の交差で全てが終わるのだと、二人とも理解していた。相手が死ぬか、自分が死ぬか。或いは、両方とも息絶えるのか。
 ──落雷。
 世界を白で埋め尽くした閃光は、三つ・・の影を確かにその場に焼き付けた。

 落雷の光を頼りに、竹林の隙間から見た光景。その未来が、何故か僕にははっきりと見えていた。
 交差する二人の“姑獲鳥”。心臓を貫かれる蓮花さんと、右からから斜めに斬断される桐花。互いに致命傷。助からない。
 そんなのは、嫌だった。桐花が死ぬなんて、絶対に。
 だけど、今の距離から間に合うはずもなかった。だけど間に合わないのは、御免だった。
 ──だから、間に合わせた。
 目の前に、蓮花さんの顔があった。彼女が驚愕の表情を浮かべる前に、僕の身体は右肩から左脇にかけて、すっぱりと斬られてしまった。
 そして僕の右脇の下を、鋭い槍が突き抜けて、彼女の胸の中央に、綺麗に穴を穿った。
 スローモーション。ゆっくり倒れていく、僕と蓮花さんの身体。背後に、確かな桐花の気配。──ああ、守れた。
 そして、世界は、極めて緩 慢に、途  切れ て、  い   く 。
 ぶつん。

 横たわる二つの身体のうち、桐花は片方を見下ろしていた。胴体を斜めに切り裂かれ、倒れている少年。
「──桐花」
 背後から、自分の名を呼ぶ声。振り向きもせず、続きを待つ。
「最後──最期まで、一度も母とは、呼んでくれなかった、な……」
「自分を殺そうとしたヒトを、母と呼べるわけがない」
 酷く無表情な声音で、言う。
「──でも、」
 続けた声は、しかしひどく哀しい。
「あなたは、ずっと私を護る人でいて欲しかったです。──お母さん」
 その言葉に、蓮花はとても驚いたような表情を浮かべ──そして、小さく優しげな笑みを浮かべた。
 ごほっ、と咳き込む。口の端から溢れ出た血が流れた。
 ふぅ、と息を整えるように、一度息を吐く。
「ああ、すまんな」
 ──それきり、蓮花は喋らなくなった。

「──終わったな」
 ぽつりと、芦屋は呟いた。ええ、とそれに高峰が答える。
 鳥居の柱に、二人はそれぞれ背を預けていた。“歯狂”は芦屋の左右に控えている。
 二人が到着した頃には、もう決着はついており、桐花が静かに俯いているだけだった。今はこうして、事後処理班の到着を待っている。何しろ社まで壊れてしまったのだ。その辺りを上手くごまかさねばならない。
「しかし──何かこう、あたしらって酷いでしょうかね」
 それに対しては芦屋も同意していた。他者は干渉してはいけない。今のあの場所はそういう空間だった。だが──
「結局は、誰かがやらねばならんことだ。仕方あるまい」
「ですなー……」
 力なく、高峰は頷いた。彼も決して、分かっていなかったわけではないらしい。
 ──と、その途端、胸の携帯が小さく震え出した。嘆息と共に、それを取り出す。
「──何だ」
 相手は笹垣だった。手短に用件が伝えられ、芦屋は了解した、とだけ言って、切った。
「何の用だったんですかな?」
「こっちも後始末だ。──俺専用の、な」
 自嘲の笑みを浮かべた。主人の気配を察してか、“歯狂”が低く唸って、浮かび上がる。
「行ってくる。こっちは任せた」
「行ってらっしゃい。──お気をつけて」
「要らぬ心配だ」
 後ろ向きに手を振り、芦屋はその場を去った。

 ──────────────────────────。
 ───────────────。
 ───────。
 ──目を覚ました。
 生きていた。まだ、僕は。
 でもひどく眠かった。今すぐにでも眠りたかった。
「──蓮花の身体をどうする気ですか?」
 だけどその前に桐花の声が聞こえたから、寝るのをやめた。
「研究所に持ち帰ります。何しろここまで完全な形──心臓は穴空いてますがね──で残っている“姑獲鳥”の遺体は中々ありませんからな」
 高峰さんの声が聞こえた。それと他にも、何人かの気配。今の言葉通りなら、多分蓮花さんの死体を運ぼうとしているのだろう。
「──すいません。あたしも心苦しいんですが、何しろ命令は命令ですからな。仕方ないんですよ。ご了承くださいな」
 本当に辛そうな声音で、高峰さんは言った。
「────そうですか」
 僕には桐花が、何をしようとしているのか、はっきりと分かっていた。だけど口出しはしない。というか、今は指一本動かせないのだから、しようにもできないのだけど。
 桐花の指先が動くのと同時に──何人分かの悲鳴が上がった。
 桐花の巻き起こした風の刃が、高峰さんとその他の人達の左腕を浅く切り裂いていた。
「今すぐ帰ってください。蓮花の身体に触れることは許しません。私だってあなた達を殺したいわけじゃないんです。ですが──」
 怯える気配。だけど高峰さんは平然として、ただ仕方ないというように小さく吐息し、
「“姑獲鳥”蓮花の遺体は、冴島桐花の手によって微塵に切り刻まれ、最早回収不可。駆けつけた処理班は、現場に巻き込まれ重傷を負った冴島晶のみを保護、と」
 そこで、僕はもう眠気を我慢できなくなり、静かに、眠りの中に落ちていった──


          §


 黒い塊が飛来し、一人がそれに掴まれ、木の幹に叩きつけられた。
 何が起こったのか、長は理解できなかった。自分達は今、山奥に留まって、蓮花があの忌々しい黒い翼を殺してくるのを待っているはずだった。今夜戦うという連絡が入り、こうして蓮花が首級を上げて戻ってくるのを待っているはずだった。
 なのに、これはどういうことだろう。突然黒服の人間が現れたかと思えば、その左右に浮いていた巨大な黒い手のうちの右手が、突如として襲いかかったのだ。
「ふん──」
 嘲るように、男は鼻を鳴らした。
「今のも避けられんとは、蓮花に比べてまるで手応えがないな。つまらん」
 その言葉に、ようやく長は我に帰った。
「──貴様、蓮花を殺したというのか!?」
 ありえないことだった。八年前、自らの娘を殺せずに逃がしたとはいえ、蓮花は群れの中で最強の戦闘能力を誇っていた。そこらの人間に殺せるわけがない。
「殺したのは俺じゃない。桐花だ」
 群れ全体に、驚愕と困惑の入り混じったどよめきがはしる。男はそれを無視し、さもつまらなそうな表情で、続けた。
「どの道関係ないだろう。どうせお前らはここで死ぬ」
 ぽん、と軽く、巨大な左手を叩く。
「今夜は馳走だ。好きなだけ喰っていいぞ、“歯狂”」
 がちがちがちがちがちがちがちがちがちがち──!!
 歓喜に打ち震えて、名の通り狂ったように歯を鳴らした。
「陳腐だが、冥土の土産に名前くらいは教えてやる」
 ずぱっ、と“倉敷”の中から“干将”“莫耶”を抜いた。
「我が名は芦屋あしやの道満どうまん。闇を渉る不滅階級者なり……!」
 ──不滅階級。それは文字通り滅ぶことのない存在のこと。しかしその『不滅』も、そう認識する世界なしには成り立たない。故に、この場合の不滅は『世界が存在する限りの不滅』である。世界の滅び即ち不滅階級の『死』──それが、不滅階級者の持ちうるただひとつの、死。神へと近づき過ぎたが故に、神のように如何に苦しもうとも死を許されぬ者。まるで、神話の中のプロメテウスの如く。
「さあ、いもしない神に祈れ。無論、加護など得られんがな」
 獰猛な、笑みを浮かべて。
 終焉の宴が、始まった。

「──十七分か。意外ともったな」
 足元の老婆を見下ろしながら、芦屋は呟いた。
 周囲には累々と屍が散らばっている。文字通りの屍山血河。ほとんど原形を留めていないが、元に戻せば二十人にはなるはずだ。だがそれでも元の数の半分である。消えた半分は、全部“歯狂”の久方振りの食事となった。
「き、さま……何故、我々を……!」
 怨嗟のみなぎる声を、老婆は──ついさっきまでここにいた群れの長は、絞り出した。
「仕事でな。後顧の憂いは断っておかねばならん。しかし──愚かだな」
 芦屋は一笑した。
「貴様等があの馬鹿げた予言などを信じなければ、こうして滅ぼされることもなかっただろうに。────ああ、そうか」
 納得した、とばかりに芦屋は一人頷いた。
「その予言を信じてしまった時から、貴様等の滅びは確定していたということか」
「な……に……?」
 息も絶え絶えに、老婆は問い返す。
「分からんか。桐花は生来風の扱いに長けた“姑獲鳥”というだけで、別に何の害もなかった。仲間を殺してしまったのも、まだその力を制御できなかったために起きたただの事故だろう? ところが貴様等はあの予言を信じ、桐花を害とし、排除しようとし──逆にこうして滅ぼされつつある。塵芥にまみれた予言など最初から笑って捨ててしまえば良かったものを。そうすれば誰一人として傷つくことはなかったのにな。──ふん、本当に愚かしい。“讖”こそが貴様らの原罪sinだったのだな」
「それ、でも……貴様さえ、いな、ければ……」
 残り少ない命を憎悪に燃やし、老婆は怨嗟を込めた瞳で芦屋を見上げた。
 芦屋は鼻を一度鳴らし、ひどく冷たい表情で続ける。
「そうだろうな。まったくそうだ。俺でなければ、貴様等は逃げるなり殺すなりできたかもしれない。これだけの──」死屍累々と横たわる“姑獲鳥”の垣根を見渡し、「数があったのだからな」
 再び、老婆に視線を戻す。
「こればかりは、貴様等の運が悪かったとしか言いようがあるまい」
 静かに、芦屋は右手を振り上げた。
「運、というのは、不思議なものだな。千の齢を数えてなおもそう思う。未だに俺の築き上げてきた知識、経験を以てしても予測することはできない。それこそが人の、否、生ける者全て、否否、存在する者全てが等しく辿り着けぬ場所──真に神の領域であるのかも知れんな」
 老婆は何も言わない。既に声を絞り出すこともできぬほど衰弱していた。
「恨むなら自身を恨め。自身の信心深さと、運の悪さをな」
 老婆は片目で芦屋を見上げた。
 ──ああ、何ということだろう。
 背中一杯に広がる“倉敷”。闇そのものの漆黒のマントは、さながら悪魔の翼のよう──
 ──ほら、やはり“讖”は正しかったではないか。老婆は思う。ただ災いをもたらすという黒き翼の者は、桐花などではなく、この男だったという、それだけで──
 奇妙な満足感を抱いたまま、老婆の頭は“干将”に貫かれた。

 ずっ、と“干将”を引き抜く。脳漿と血で汚れたそれを、老婆の着物で拭き取り、“莫耶”ともども“倉敷”の中に戻した。
 そして芦屋は、その人物の方に向き直った。
「──久しいな、安倍晴明」
 視線の先の少年は、百二十年前と変わらぬ微笑みを浮かべてそこにいた。


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