「自分を知らない男と、自分を語らない少女の、ただそれだけの話」

 

 Lunatic Luna



 カチリと音がして、目の前の空間に小さな赤が現れた。背後から感じる紅い視線に振り返ることなく、俺はそれを口元に近づけた。
 ライターの火が煙草の先を焦がし、やがて煙が立ち昇り始める。俺はそれを口に咥え、思い切り吸い込んだ。
 喉の奥に染み渡る主流煙。どうしようもないくらい心地よい。自分が生きているということを実感できる瞬間は、睡眠と、食事と、これくらいのものだ。まぁ、あともう二つあるが、それは伏せておこう。
 座っていたベッドの縁から立ち上がる。ブラインドの隙間から漏れる光は、夜が明けたことを示していた。
 シャッ、と音を立て、ブラインドが一気に上がる。
 飛び込んできたのは、いつも通りの風景だ。窓を開ければ、冷たい冬の朝の風が部屋に滑り込んできた。
 乱立する廃棄ビルも、灰色の淀んだ空気も、どこからともなく聞こえる奇声も、何もかもがいつも通りだ。そう、結局、あの時から何も変わってはいない。──変えられてはいない。
 少し、説明が必要だろう。
 四二年前の西暦二〇六五年九月二六日、突然襲い掛かった世界的な大地震によって、世界は混乱の渦に落とされた。その中でも特に、火山大国でもあり、大陸プレートに囲まれているようにして存在しているこの国──日本は、当然の如く壊滅的な打撃を受けた。
 当時世界──特に日本──は、医学、情報科学、機械工学などの全ての分野において最高水準に達していた。だが、それが一夜にしてあっさり崩壊したのだ。ある宗教学者は言った。これは技術という名のバベルの塔を作ってしまった人間に対し、神の裁きが下ったのだ、と。
 つまらない三文小説の、つまらないくだりと同じだ。もしその大地震が誰かによって引き起こされたのなら、そいつはオリジナリティに欠けているに違いない。もう少し意外性のある方法は見つからなかったのだろうか。
 まぁ、それが誰かのせいであれただの自然現象であれ、ともかくその地震のせいで日本は今のようになってしまった。
 死者推定二千万人。推定行方不明者五千万人。断続的に起こった地震と、それに伴う大津波、火山活動の活発化によって、それだけの人数の命が奪われたらしい。最終的に、日本の人口は四分の一以下にまで追い込まれた。政治家や天皇などは仲良く核シェルターか何かに避難していたらしく、死傷者はほとんどいなかった。無論、都市の方は当然の如く破壊され尽くしたが。
 そしてこの街は、その時の状態のまま放置されて今に至る。早い話、東京の機能回復に時間を費やした政府がこの街を立て直すのを面倒臭がっただけだ。
 で、今のこの街が出来上がったわけだ。今や『日本』として機能しているのは東京を中心とした本州のみで、かつて北海道や四国、九州と呼ばれていた場所は、最早日本ではないと言える。
 そう、かつての九州一の大都市であった、この福岡県旧福岡市も。
 かつての大都市も今は見る影もなく、高層ビルは全て廃棄され、自分の過ごしてきた場所に留まった元からの住人と、精神異常者や裏業界の人間だけが住み着く場所となった。無論ここにこうして暮らしている自分も異常なのだろうが。
 まぁ現状だけを言うならば、見捨てられたこの土地にも、ある一定の秩序は存在している。法と呼べるほど大層なものじゃないが、暗黙の了解のようなものは存在していた。
 混沌としていた世界がようやく落ち着きを取り戻すと、自然と共同自治体などが設立され、結果何とか人はここでも働いて生きていけるようになっていた。自治体が協力して少しずつ街を整備していき、お陰で今では電車も使えるしテレビも見れるし濁ってない水も飲めるし──地震直後は錆色をした水が飲料水だったらしい──、何より就職口ができて人が働いて金を稼げるようになった。物資などについてはそれ専門の仕事に就く人間が、わざわざ本州に出向いて手に入れたりしている。とりあえず少しずつ──本当に遅すぎるくらいのスピードだが、少しずつ、復興していっていると言えるだろう。
 くだらない説明はこの程度にしておこうか。聞いたところで何の得になるわけでもあるまい。
 背後で衣擦れの音がする。ちらりと視線を向ければ、自分に向けられた紅玉の持ち主が──上体を起こした裸の少女がいた。長い髪は真っ白で瞳は赤い。先天性白皮病──俗に言う、アルビノというやつだ。
 少女と俺の視線が一瞬、絡み合う。表情は極めて無表情。まるで能面のような──いや、能面の方が、作られているとはいえ表情がある分まだマシだ。こいつはその表情すら見当たらない。そんな表情。
 すぐ視線を背けた少女は、ベッドから降り散乱していた自分の服をかき集め、それを着始める。
 俺も視線を戻し、窓の外の光景を見た。
 見える景色は変わらない。俺は何を考えるでもなく、それを見ながら煙草をふかしていた。
 ぱたん、と背中で音がする。あいつが部屋を出て行ったのだろう。
 あいつの名前は月夜。あいつにまだ名前がなかった頃、俺がつけてやった。中々風流だと思うだろうがそうでもない。呼ぶのに不便だったから名前を付けようと思っただけで、あの名前も単に名前をつけたのが満月の晩だったからというだけだ。
 年齢は多分一三、四歳。身長は一四〇センチくらいだろうか。体重は知らない。
 一緒に暮らし始めて二年経つが、俺が知っているのはその程度のことだ。あとは、好きな食べ物くらいだろうか。
 まぁ、日本の現状とあいつの紹介はこれくらいにしておこう。長話は苦手だ。
 かちゃり、とまた背後で物音。振り向けば月夜が透明な視線を俺に向けていた。
「飯か?」
 こくり。
 頷きが返される。
「分かった」
 ぎゅ、と煙草の火を親指で潰し消し、窓の外にそれを投げ捨てる。ベッドの上の上着をひっかけ、俺は部屋の出口に歩き出した。
 そういえば自己紹介を忘れていた。
 年齢は大体二五歳くらいで身長一八二センチ、体重六五キロの男。髪も瞳も何の変哲もない黒。ちなみに髪は肩まで伸ばしている。
 名前? 俺も知らん。知っているのなら教えて欲しい。

 

 居間の背の低いテーブルには、本日の昼食が並べられていた。
 目の前の皿には、こんがり焼けた──というより表面が炭化した元食パンが一枚と、その上に乗せられたバターの塊。その傍らには、昨夜の残りの野菜スープ。但しそれは器の半分しか入っていない上に具は一切入っていない。それと四分の一カットにされ皮も種も取られていない林檎。そして色の薄いコーヒー。
 対して月夜の皿には、丁度良く狐色に焼けたパンとバター。そして器一杯に入った野菜たっぷりのスープと、綺麗にウサギカットされた林檎。そしてミルクティー。
 毎度のことながら、あからさまなイヤガラセだ。もっとも、とっくの昔に慣れてしまったが。
 とりあえず噛り付く。ガリッ、と音がして、苦さが口の中に広がった。やはり不味い。
 手元にあったテレビのリモコンを取り、先をテレビに向け電源ボタンを押す。が、反応がない。電池でも切れたか?などと思っていると、唐突にそれが手の中から消えた。
 いつの間にやら俺の横に立っていた月夜が、俺の手からリモコンを奪っていた。そして──
 がつんっ
 思い切り、テーブルに叩きつけた。唖然とする俺を横目に、月夜は赤いボタンを押す。
 プツン、と音がして、徐々にテレビの画面が映像を映し出した。月夜に視線を向ければ、相変わらず無表情なまま『ついたよ』と言わんばかりにリモコンを差し出していた。
「……もう少し穏便にやれ」
 分かっているのかいないのか。呆れ気味にそう呟いた俺がリモコンを受け取ると、月夜は再び食事に戻った。
 画面左上に出ている時計は午前一〇時二二分を表示していた。
 流れているのはニュースだった。どうやら本州の国に属する医学開発チームが、まったくことなる生物二つの遺伝子を掛け合わせた、雑種生物の誕生を成功させたらしい。
 向こうではどんどん時代が進んでいるというのに、こっちはあの時のまま止まっている。せいぜい、本州から盗み出した技術や物資を、こちらのフリーの技師が活用している程度だ。
 このテレビに映る映像もそうだった。地震のあとも、地下や海底を走る光ファイバーケーブルは生き残っていたらしく、そこから誰かがテレビの情報を引っ張ってきているらしい。本州側も、既に崩壊したこちらに情報を送ることはやめていなかった。というより、忘れてられているのだろうが。お陰で俺達も退屈を紛らわせられるわけだが。
 食事が済むと、画面の時計は丁度一〇時三〇分を示していた。簡単に洗い物を済ませ、厚手のコートを羽織った。
「さてと……」
 月夜も着替えてきたようで、黒いタートルネックセーターに黒いスカート、そして黒キャップに黒いポーチとどこまでも黒尽くめな服装で俺の横に立っていた。
「行くか」
 確認するように言うと、ブーツを履いた月夜はこくりと頷いた。
 ガキッ、と壊れかけのドアが軋み、開く。
 ゴォォ、と唸りを上げて、強めの風が吹き抜ける。煙草の煙はそれに流され、何処とも知れない場所へ旅立っていった。
 廃棄された高層マンションの二〇階。その眼下に広がるのは灰色の大地。目の前に広がるのは灰色の岩壁。見上げれば灰色雲が空を覆い、自分自身も灰色の煙を吐き出している。
 どこまでも果てしない灰色の世界。無限ということはないのだろうが、ここから見る限りではそう思えてしまうほどに、視界は灰一色だった。
「ふぅ……」
 吐息と共に肺から煙を吐き出し、俺は足の向きを九〇度変え、階段まで歩き出した。月夜もそれに続く。途中ゴミ袋と一緒に明らかにジャンキーと思われる男が転がっていたが、無視して通り過ぎる。
 と。
 ばたっ
 後ろで、何かが倒れる音がした。
 振り向いてみれば、まず月夜が倒れていた。その身体を頭から順に辿っていくと──その足首は、今前を通り過ぎたジャンキーに掴まれていた。焦点の定まらない目で、涎を垂らしながら、そいつは笑っていた。明らかに正気を失っている。理性も何もかも吹き飛んでいるのだろう。おそらく月夜を捕らえようとした理由も、本能的な肉欲に従ってのことか。
「何やってんだよ」
 俺はその言葉を、ジャンキーにと言うよりむしろ月夜に向けて言い放った。月夜は表情も変えず、足を少しずつ這い上がってくる男の手さえ無視して、ポーチの中に手を突っ込んで何かを探していた。そして、
 ぱんっ
 軽い音が耳に届いた。月夜の手の中にある黒い塊は、口から白い煙を吹いていた。月夜を掴んでいた男の腕からは紅い液体が。月夜は上腕部を貫かれもはや握力を失った男の手を剥がすと、立ち上がって汚れた服をぱんぱんと叩いた。それを見届けて、俺は歩くことを再開した。後ろからはブーツの足音と、男の狂った笑い声だけが聞こえていた。

 

 アスファルトで舗装された巨大な交差点。斜めに敷かれた横断歩道を渡る。それほど多くはない人数が俺の横をすれ違っていく。灰色のツナギの男、コート姿の女、髪を金色に染め、同じ色の髪の友人達と喋っている少女。その手には煙草が握られていた。
 昔は、この交差点をもっと大勢の人数が通っていたらしい。今のこの状況から考えると想像もつかないが、おそらく本州ではまだ同じ状況が続いているのだろう。
 ──ぱーん、と銃声が残響した。それだけかと思えば、あと二回続いた。出所は知れないが、ここではないことは確かだ。音が遠い。
 周囲の人間達は同時にそれに反応し周囲を見回したが……目の届く範囲に何もないことを知ると、今までと同じ行動を続けた。
 と。俺を追い抜くようにして小さい影が横を過ぎていった。暗色のジャンパーにジーンズと帽子。背中から判断する限り、おそらく少年。右手は何枚かの紙切れを握り、左手では拳銃を弄んでいた。大方裏路地でカツアゲか強盗でもしてきたのだろう。銃声が数度響いたからつ相手を殺してから奪ったのかもしれない。
 そのまま一度も振り返ることなく少年は横断歩道を突っ切り、ビルとビルの間の路地に消えた。

 

 キィ、と扉を軋ませて入ったその場所は、いつもと同じような喧騒に包まれていた。……但し今回は少々毛色が違うようだが。
「何するんですかっ!」
 店のイメージを著しく悪くするはずなのにてんでお構いなしに、ウェイトレス姿の少女は喚き散らしていた。少年のように短く切り上げた亜麻色の髪に、それと同じ色の瞳。今は怒りに染まっているが。
 三時間ほどで日常生活その他に必要な買い物を済ませ、少し腹が減ってきたからいきつけのこの店に来たわけだが……どうやら揉め事が起きているらしい。
「そう言うなよ。少し酌しろって言ってるだけだろ?」
「他のお客様にもお料理お運びしなきゃいけないんですよ!」
 そんな彼女の細腕を握っているのは、卑しい笑みを浮かべたいかにもガラの悪そうな青年。後ろに同じような表情をしたのが二人。おそらくは仲間なのだろうが……俺はそれよりも「酌しろ」というセリフが果たして若者の使うセリフなのだろうかということが気になっていた。
 彼らは間違いなく『新入り』だった。腰から銃を──大方そこら辺で手に入れた安物なのだろうが──ぶら下げていることからそれが分かる。ここに住み慣れたものならわざわざ見える位置に銃を置くような真似はしない。昔なら見せているだけで相手に威圧感を持たせることが出来ただろうが、今は違う。むしろ銃を持っているということは、それを買えるだけの金を持っているということに繋がり、逆に襲われやすくなるのだ。だから住み慣れた人間はなるべくそれを隠すし──第一そこのウェイトレスに喧嘩を売るような真似はしない。
 おそらく田舎の悪ガキが、周囲から疎まれ、その結果自分と同じように荒んだこの場所に来たということなのだろうが……彼らの認識は大いに間違っている。ここは、それほど荒んではいない。但しそれと同時に、彼らが思う以上に、暗く、重く、そして混沌としている。
 他の客は普通に食事しながら、むしろ楽しむようにしてそれを眺めていた。
「いい加減にしないと──」
 ウェイトレスが手を背中に回し、
「撃ちますよ」
 青年達の目の前に、一秒前までは存在していなかった暗い洞穴が出現した。
 四五口径リヴォルバーの銃口を突きつけられた青年達は、一瞬きょとんとし──次の瞬間大爆笑した。おそらく彼女が自分たちを殺せるはずがないとタカをくくっているのだろう。だが周囲の客は揃って溜息をつき、一人の初老の男性は胸の前で十字架を切っていた。
 ウェイトレスの繊手が、ゴキリと撃鉄を起こす。指がトリガにかかり、いまだ笑い続けている青年達に照準を定め──
「あー……」
 そこでようやく俺は声を出してやった。それまでまったく気づかなかったようだ。
「あ、いらっしゃいませ〜」
 銃を降ろし、営業スマイルを浮かべてウェイトレスは俺に言った。俺はそれに片手を上げて応え、
「店の中でそんな物騒なもん振り回さないほうがいいと思うんだがな。イメージダウンに繋がる」
「そうは言っても悪いのはこちらのお客様なんですからねっ。相手の機嫌損ねて殺されても文句言えないのはここでは当然でしょ?」
「尚更悪い。下半分になった頭にミートソースが盛られたりなんかしたら、ここにいる全員がしばらくベジタリアンになるぞ、多分」
 冗談めかして言うと、彼女は「むぅぅ」と頬を膨らませて黙り込んだ。
「なんだ、テメェは」
 代わって、頭の悪そうな言い方で青年達が俺に話し掛けてきた。
「名乗るほどのもんじゃないさ」
 名乗る名もないが。
「フザけんなよ、ブッ殺すぞテメェ」
「使い古された前口上を述べるのは結構だが……この土地じゃ利口な判断とは言えないな」
「ッざけんなぁっ!」
 飲食店にとっては迷惑なことに、一人が激昂して唾を撒き散らし、その銃口を俺に向けて床を蹴った。
 ……やはり素人だった。グリップの握り方を間違えているし、銃口が定まってないし、何より走りながら撃とうとする時点で間違っている。遠距離攻撃を目的とする銃を持っているのにわざわざ近づいてくるなど阿呆のやることだし、そもそも走りながらでは照準も安定しない。昔の映画などではよく見られた光景だが、相当の修練を積んでいないとあんな芸当は無理だ。ついでに言えば……間抜けにもセーフティーをかけたままだ。俺は溜息をつきながら近くのテーブルからフォークを一本借り、それを目の前で振ってみせた。それが男を更に怒らせたのか、怒号を上げながら突っ込んでくる。
 トリガを引こうとして──そこでようやく気づいたようだ。馬鹿の極みだ。目前で止まり、慌ててセーフティーを外そうとするが……それを待ってやれるほど俺は気が長くなかった。
 ざくっ、と最近食べていない肉厚のステーキを突き刺したような感触が手に伝わる。四つに分かれたフォークの先端は、男の肩の付け根に突き刺さっていた。
 男が情けない悲鳴をあげる。うるさかったので側頭部を殴り失神させておく。
「さてと」
 俺は残り二人に向き直った。仲間がやられて怖気づいたのか、それだけの動作で二人はびくっと身を竦ませた。俺は気を失っているそいつから銃を奪い、くるくると指先で回転させた。
「今なら見逃すが、どうする?」
 訊くまでもなかった。
 二人は素早く倒れているそいつを担ぎ、さっさと店を出て行った。俺はようやく騒動が終わったことに息を吐くと、まだ手の中にあった銃を店の外に放り投げ捨てた。
「すいません。お手数おかけしました」
 ぺこりとウェイトレスが──陽子が頭を下げる。
 彼女は唯一の肉親である兄と二人でこの店を切り盛りしている。兄がコックで、妹である彼女がウェイトレスというわけだ。ちなみに彼女に喧嘩を売ったりナンパしたりする人間がいないのは、彼女の兄、隆志は怒らせると怖いということと、何より彼女自身が一番怖いということによる。この店ができたての頃、彼女に痴漢行為を働いた酔っ払いが両腕を素手でへし折られて以来、誰も彼女に言い寄ろうとはしない。しかし彼女は体術より銃の腕前に自信があるらしく、ライフルを持たせたら二〇〇メートル離れた標的も自分からは逃れられないと豪語していた。ただ、『彼氏ができなくて困る』などと嘆いていたが、その原因は彼女自身にあるのだから仕方がない。そのことは自覚すべきだろう。
「ご注文はお決まりですか?」
 円形のテーブルについていた俺と月夜に、よく冷えた水を差し出しながら、陽子は訊いた。俺はメニュー表を閉じ、生姜焼き定食一つ、と注文した。陽子はそれを確認すると、「月夜ちゃんは?」と訊く。月夜はメニューの一つを指差し、頷いた。
「お兄ちゃーん、生姜焼き定食とハンバーグ定食一つずつー!」
 間を置かず「りょーかーい」と声が聞こえてきた。
 料理ができるまでに、しばらく時間がかかるだろう。俺はコートの中に入れてきた文庫本を適当なページで開いた。

 

「お待たせいたしました〜」
 最初開いたときは一四二ページ目だった小説を、料理ができる頃には二一七ページまで読み進んでいた。
 目の前にことりことりと定食メニューが並べられていく。俺はそれを見ながら、陽子に訊いた。
「今日は爺さんはいるのか?」
「いますよ〜」
 それだけ答え、陽子は盆の上に乗っていた料理を並べ終えていた。
「えーと、生姜焼き定食一つとハンバーグ定食一つ。ご注文の品はお揃いですか?」
「ああ」
「それではごゆっくりどうぞ〜」
 頭を下げ、ぱたぱたと店の奥に引っ込んでいく。背中のホルスタに仕舞われたリヴォルバーは、やはり似合っていなかった。

 

 店は、廃棄されたビルの一階を改装して作られている。元々は高層ビルだったようだが、五階から上は地震の際にぽっきりと折れてしまったらしく、今はかなり背が低くなってしまっている。二階と三階は別の店が入っており、五階は店の従業員の住まいとなっているようだ。
 食事を終えた俺と月夜は、店の裏口から建物の裏側に出た。裏路地は薄暗く、そして酷い腐臭が漂っていた。
 それもそのはずで、目の前にはゴミと汚物にまみれたボロ雑巾のような死体が転がっている。少し奥に目をやれば、生きてるのか死んでるのか区別がつかないモノがいくつも転がっていた。
 いくら共同自治体があるとはいえ、完全に管理が行き届いているというわけでもなかった。というより、必然的にこういう場所は存在してしまうのだ。
 ここにいるのはジャンキーや精神異常者ばかりだ。しかしこの街は、麻薬中毒の治療に必要な機材や薬や施設はなく、それらを操る医者さえいない。医者を育てようにも教えてくれる者もおらず、各自が自分の見を守るために必要最低限な医療知識を自力で身に付けるしかなかった。それでも医学書から独学で学び医者としての役割を果たす者もいるが、数は少なく、裏路地の住人全員に対応できるわけもなかった。そんな理由もあって、自治体も彼らと彼らの住む裏路地に対してだけは見て見ぬ振りをしている。
 結果──放置され続けた空間はこのような状態になる。普通の人間なら、絶対こんな場所には近づこうとはしない。それが更にこの状況を悪化させているわけだが。
 俺は鼻腔を突き刺す汚臭に眉根を寄せながら、その中を歩いていった。ジャンキー達は何をするわけでもなく、虚ろな視線を俺達に向けていた。
 少し歩くと、袋小路に突き当たった。店の裏口から五〇メートルと離れていない。俺が正面の壁に立てかけられたトタン板をどけると、そこにはコンクリを砕いて掘られた暗闇が広がっていた。まずライターを持った月夜が入り、続いて俺。穴は上下の幅が小さく、俺は常に背中を曲げて通らなくてはならなかった。
 やがて空間が開けた。ようやくこれで腰を伸ばせる。目の前には間に合わせたように取り付けたドアが一つ。俺はそれを、コンコンと二回ノックした。
「あいとるよ」
 しわがれた声が返ってくる。俺はドアを開け、その中に身を滑り込ませた。
「なんじゃ、『死に損ない』か」
 裸電球に照らされた狭い部屋の中、カウンターの向こうで新聞を読んでいた俺を見るなりそう呟いた。彼の後ろにある、本来ボトルが並べられているはずの棚には、代わりにたくさんの紙の束が積み重ねてあった。
 クラシックな店内。この店は以前繁華街の地下に位置していたのだが、地震による災害で崩れたコンクリに入り口を潰され、そのまま忘れ去られていたらしい。それをこの老人が前に──少なくとも俺が生まれる前に──見つけ、それ以来ずっとここに住んでいる。
 この老人は、今でこそ枯れ木のような腕だが、昔は力仕事ばかりしていたらしく、その腕力を生かしてこの店を掘り当てた、と自慢している。実際に、彼は地下迷宮と読んで差し支えないほど複雑な通路を街の地下に形成しており、それは様々な場所に繋がっている。俺が通ってきた道もその一つだ。
「で、『死に損ない』が『蟻』に何の用じゃい。仕事が欲しいのか?」
 皺くちゃの顔に嵌め込れた、それだけ衰えることのないような鋭い眼光で俺を睨めつけ、言う。俺が無言で頷くと、自分を『蟻』と呼んだ爺さんは、日付が一〇年以上前の新聞を放り投げ、棚から一冊のノートを取り出した。
「今はいい仕事が入ってきとらんでな。特に殺し関係のは全然ない。大概お前さんが殺しすぎたんじゃろが……」
「そんな言い方するとまるで俺が殺人鬼みたいだな」
「違うのか?」
「まあ……否定しないけどな」
 こめかみを掻きながら俺は言った。と──
「……っと」
 一瞬足元がふらつき、カウンターに手をつく。月夜も姿勢を崩し、俺のコートにしがみついていた。遠くから伝わってきた軽い震動と地鳴りのような響きは、十数秒ほどで収まった。
「……西からじゃったな。一キロほど離れとるか」
 爺さんが呟く。
「あの辺りの建物はデカかったが……その分老朽化が激しかったからの。それが倒れたんじゃろうて」
「だろうな」
 爺さんの推測に俺も同意し、ここからは見えない場所を見やった。
 地震の後も結構耐え残っていたビル群だが、それでもたまにこうして崩れることがある。
「何人死んだと思う?」
「二、三〇人くらいだろうな。あの辺りは結構人も多かったし」
 何気ない爺さんの問いに答えながら、俺はポケットから煙草を取り出した。
「おお、そうじゃった」
 ぽん、と手を打ち、突然爺さんは声を上げた。
「まだ正式な依頼受け付けはしてないんじゃがな、二、三日前ここに依頼しにきた子がいるんじゃった」
「いるんじゃったって……今もか?」
「ああ。帰れと言ったんじゃが梃子でも動かんでな、仕方なくここに泊めとる。まぁ、身の回りの世話もしてくれて、孫ができたみたいで結構いいもんじゃが」
 照れ笑いを浮かべ、爺さんは鼻の頭を掻いた。
「どんな依頼なんだ?」
 爺さんの笑みが凍りついた。そして深く溜息を吐き、
「本人から聞け。ワシは喋りとうない」
 そう言って背を向け、カウンター横の扉を指差した。爺さんの住んでる部屋だ。俺はその部屋に近づき、ここに入ってきたときと同じように二回、ノックする。
「はい……」
 控えめな声と同時に、カチャリとドアが開いた。
 そこに立っていたのは、一人の少女だった。俺と同じ黒髪黒瞳。但し髪は腰の辺りまで伸びてるし、目はぱっちりと開き、快活そうなイメージを与える。
「どちら様ですか?」
 首を傾げて、エプロン姿の少女は言った。
「あんたが依頼人か?」
 俺はそれには答えず問い返した。
「あっ、はい、そうです。里美といいます」
 にこりと微笑み、少女は名乗った。

 

「──率直に言います。依頼というのは、私の仇討ちの手伝いをして欲しいんです」
 今も残されているテーブルに座り、早速依頼内容のことを訊くと、彼女はそう言った。報酬については、自分の有り金全部、とまで言い切った。しかも前払いでもいい、ということで、まだ正式に依頼を受けたわけでもないのにいきなり分厚い封筒を差し出してきた。
「確かに率直だな……」
 正直な感想を俺が漏らすと、彼女は小さく微笑み、言う。
「長々と話をしても時間の無駄でしょう?」
「確かに」
 それには俺も同意した。
「だが、事情の説明くらいしてくれ。理由もなしにただ手伝えというのは気に食わん」
 言うと、彼女は「そうですね」と言って説明し始めた。
「話は四ヶ月前に遡ります。私は田舎の村に住んでいました。家族は父と母と、それと兄が一人いました」
「いましたってことは……要は、家族の仇討ちをしたいってことか?」
 彼女が過去形で言ったことから判断して、俺はそう言った。
「正確には兄の、です。両親はまだ生きてますから。……兄さんは半年前、村を出てこの街にきました。私の住んでいる村は山の中でしたから、作った野菜を九州の色々な街──勿論この街もです──に売って皆生計を立てていました。兄さんには、そんな状況が退屈だったんでしょうね。『一旗揚げてくる』と言って飛び出していきましたよ。ほんと……馬鹿な人でしたよ。いつも馬鹿なことやって皆を困らせて……でも笑わせてくれて……」
 兄を思い出してか小さく苦笑する彼女の顔は、しかしどこか哀しかった。
「そして二ヶ月前、兄さんが帰ってきたんです。でもその兄さんは、もう昔の兄さんじゃなかった。何故だか分かりますか?」
 俺が首を振ると、彼女は俯き、間を置いてから続けた。
「……クスリですよ。多分誰かに射たれたんだと思います。兄さんは、自分を捨てるような真似は絶対しませんから。……身も心もボロボロになって、それでも兄さんは帰ってきました。……最期は私が看取りました。何度も謝りながら兄さんは死にました」
 沈痛そうに語る。しかし彼女は──
「その割には涙ひとつ流さないんだな」
 遠慮なく切り込んだ俺に、彼女はまた笑みを浮かべて、
「涙なんて、兄さんが死ぬときに流し尽くしましたから」
 そう言った。
 沈黙が続いた。
「──四人目だ」
「え?」
 先に口を開いたのは俺だった。
「四人目だ。俺に仇討ちの依頼をしにきたのは」
 ふぅ、と煙を吐き出し、俺は天井を見上げた。ゆっくりと回る大きなプロペラ型の扇風機がそこにあった。煙はそれに巻き込まれ、空気に溶けた。
「仇討ちってのは……人殺しになることだ。あんたにその覚悟があるのか?」
「はい」
 即答する。予想だにしない返答の仕方に呆然とする俺に、彼女は凛とした表情で、
「私はもう人殺しですから」
 そう、告げた。
「ここに来るまでに四人殺しました。理由はそれぞれですけど……」
 その『理由』というのは、大体予想がつく。少女一人が無防備に出歩いていれば当然……ということだ。この場合、その少女は無防備ではなかったということだが。
「罪の意識も感じません。罪を許されようとも思いません。私は目的が果たされればそれで満足ですから」
 強固で、しかし冷徹な光を称える瞳。俺はそれを見つめて、もう一度煙を吐いた。
「覚悟できてんなら……別にもう何も言わんよ。──爺さん」
「何じゃい」
 新聞を閉じ、眼鏡の奥から細めた目でこちらを見る。
「商談成立だ」
 金の詰まった封筒をありがたくポケットに突っ込みながら言うと爺さんは吐息し、
「……頼む」
 そう言って、もう一度新聞を読み始めた。

 

 とりあえず爺さんに目ぼしい麻薬取引業者を探ってもらうように頼み、俺と月夜と、そして里美はそこを出た。とはいってもこの界隈に業者は多く、いい情報が掴めるとも思えないが。まぁ、里美の兄──洋平の身体特徴も分かっているので、返送も何もせず、素顔のまま彼が業者と接していたのなら可能性はある。
 取り留めのない会話をしながら──話していたのは里美ばかりだったが──帰路に着く。
「私、兄さんのことが好きだったんです」
 そんな中、彼女は言った。
「それはそうだろうな。でなきゃ仇討ちしようなんざ──」
「違います」
 首を左右に往復させる。
「兄妹としての、じゃなくて、男女としての愛情です。勿論、いけないこととは分かってましたけど」
 俺はその話を淡々と聞いていた。別に驚くほどのことでもない。というより、近くに具体的な例があるというだけだが。陽子と隆志がそれだ。
「私兄さんに抱かれたことあるんですよ。……言い出したのは私の方から。親がいないときに、思い切って自分の想いを伝えてみました。その時の兄さんの顔ったらおかしくって、困ったような、照れてるような笑い顔を浮かべてて……そのまま私を抱き締めてくれました。……ことがすんだあとは、何度も謝ってました。抱かれたのは、それ一度きりです」
 話し終えて、里美はそれ以上喋らなかった。ただ遠くから聞こえるカラスの鳴き声が、夕焼け空に染みていた。
「──で、何でその話を俺に?」
「何ででしょうね」
 先に口を開いた俺に、里美は苦笑を交えた声音で言った。彼女にも分からないと言うのか。自ら発した言葉であるのに。
「何となく……何となくですけど、多分、話しておきたかったんだと思います。もし私が死ぬようなことがあったら……私と兄さんのことを、覚えていてくれる人が欲しかったからかも知れません」
「死なれちゃ困るんだがな」
 依頼人に死なれては金が貰えない。そう思って正直に口にしたのだが、彼女は何を思ったのか、小さく笑った。
「死にませんよ。少なくとも、敵を討つまでは」
 やはり強い意志をたたえた瞳で、そう言った。
「……羨ましいよなぁ……」
 ぽつりと呟いたその言葉は、彼女には聞こえていないようだった。
 ただ月夜だけが、俺を見ていた。

 

 ようやく部屋に着いた。出たときにいたジャンキーの姿が見えず、代わりに、手すりから身を乗り出すと、アスファルトの地面の上にカラスが群がっていたが……別にどうでもいいことだった。
「テレビとラジオはあるが水道管が壊れてるから水は出ない。飲みたいときは台所横のポリタンクから勝手に注ぐといい。ガスボンベもあるから火も使えるが、あまり無駄遣いはしないで欲しいな。風呂に入りたい時は言ってくれ。銭湯まで案内してやる」
 とりあえずそれだけ述べ、俺は居間のボロいソファに腰を下ろす。里美と月夜は、ゴミ捨て場から拾ってきたテーブルの横に座った。
 リモコンの赤いボタンを押し、テレビをつける。ブツン、と音がしてスピーカーから音声が流れ始め、次いでゆっくりと暗い画面に光が灯った。だがそれは、通常の色彩ではなく、無茶苦茶な──それこそ絵の具の中身をぶちまけたような色彩に彩られていた。朝はリモコンの調子が悪かったが、今度は本体の調子が悪いらしい。
「ちっ……」
 チャンネルを変えてもそれが直らないことを知ると、俺は軽く舌打ちし、目が痛くなる明滅を見せ付ける画面を黒に戻そうとして──不意にそれが自分の手から消えていることを知った。
 見上げると、黒く薄い直方体を振り上げている月夜がいて──直後、それを投げた。
 ガガンッ、と硬いプラスチックの塊同士がぶつかり合う音を立て、リモコンは画面に激突した。衝撃でか一度画面が大きくぶれ……そして通常の色彩を取り戻していた。
 もう一度月夜を見ると、月夜は『戻ったよ』と言わんばかりに俺を見下ろしていた。
「朝言ったこと聞いてたか?」
 とりあえずそう言って、俺はよりいっそう深くソファに身を沈めた。里美はどうすればいいのか分からずおろおろしていたが──俺が月夜を叱るとでも思っていたのだろう──何も起きないと分かると、とりあえず自分もテレビを見始めた。
 俺は自分でテレビをつけておきながらもそれに目を向けず、着たままだったコートから取り出した文庫本の続きを読み始めた。

 

 どれくらい時間が経ったのか。読み終えた文庫本を放り投げ時計に目を向ければ、時刻は七時を回っていた。そう知った途端、一気に空腹が襲ってきた。
 飯でも作るか、と立ち上がり、ここでようやくまだ着たままだったコートを脱ぐ。月夜は俺が何をするのか察したらしく、立ち上がって小走りに台所へ駆けた。俺が台所に着くと、月夜は薄汚れた白いエプロンを差し出した。
「夕食は何がいい?」
 月夜と里美、両方に向けて問い掛けてみる。無論月夜は答えないが。
 里美が発した声もまた、何かを希望するものではなく、疑問符を孕んだものだった。
「料理できるんですか?」
「健康的な生活を送るための必要最低限の技術だからな」
 素っ気無く答え、俺はエプロンの紐を結んだ。
「何か手伝いましょうか? こう見えても結構料理に自信あるんですよ──」
「そうか? それじゃあ──」
 ──。
 彼女は多分怪訝に思っただろう。俺の言葉は中途で途切れていた。身体に伝わった浅く、しかし鈍い衝撃によって。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや、何でもない」
 どうやら彼女にとっては死角になっているようで、俺の身に起きた異変には気づいていないようだった。──彼女の精神衛生上、気づかなくて良かっただろう。
「そうだな。じゃあ卵買ってきてくれ。このマンションの近くに店があっただろ? あそこにある。それまでに俺は材料の準備をしておこう」
「あ、はい。分かりました」
 少しだけ早口で捲くし立てた俺を不信がることもなく、彼女は部屋を出た。足音が遠ざかったのを確認して、俺は異変の始末に取り掛かった。
「月夜……」
 横腹に刺さった包丁を引き抜きながら、俺は言った。
「お前が俺を殺したがってるのは分かってるし、俺は確かにお前が俺を殺そうとするのを止めないって約束したけどな……」
 包丁を水で丹念に洗いながら、言う。
「殺るつもりならもっと効率的で合理的な手段を選べ。お前は銃の方が得意なんだから、俺を殺すつもりならそっちを使え。非力なお前が包丁刺したところで、例え俺以外の人間でも大したダメージは与えられん。銃で狙うとしても必ず頭だな。他の場所だと致命傷になりにくい。できることなら確実性を増すために二、三発連射しとくべきだな。分かったか?」
 こくり、と相変わらず虚ろな視線を向けながら、月夜は頷いた。
 それ以上会話を交わすこともなく、調理を再開する。数分後里美が戻ってきた。
 彼女はどうやら俺の脇腹に空いた穴に気づいたようで、首を傾げながら訊いた。
「それ、どうしたんですか? 服が破けてますけど」
「ああ、ちょっとな。前にどっかで引っ掛けたらしい」
 真実を述べるわけにもいかないので、とりあえず俺はそう言った。彼女はもう一度基部を傾げ──やはり『引っ掛けた』というには鋭い切り口だったか──しかしそれ以上問い掛けることなく、ビニール袋から買ってきた物を取り出した。
 俺はちらりと視線を切り口に落とし──相変わらず紅いものが付いていないのを知り、小さく吐息した。

 

 料理が完成したのは、約三十分後だった。
 野菜のオムレツをメインに、豆腐と油揚げと葱の味噌汁。それに白飯と熱いウーロン茶。ちなみに俺が作ったのは味噌汁だけで、オムレツは月夜と里美の共同制作だ。俺は料理がそう得意なわけじゃない。簡単な物なら何とか作れるといった程度だ。
 食事を終え、里美を銭湯に案内する。
 兎角女の入浴は時間がかかる。帰りは月夜に任せても大丈夫だろう。そう思い俺は帰って、することもないのでさっさとベッドに寝転んだ。
 そのまま俺は、うとうとと浅い眠りに落ちていった。

 

「あの……」
 俺は遠慮がちなその声で目を覚ました。半分だけのぼやけた視界にいたのは、ドアの前に立っている、バスローブ姿の里美だった。それ一枚しか着ていないらしく、身体のラインが浮き彫りになっている。
 ようやくはっきりしてきた脳と視界で腕時計に目を向けると、俺が帰ってきてから十分しか経っていない。もう帰ってきたのだろうか。
「……月夜は?」
 ベッドの縁に腰掛けるようにして身を起こし、訊いた。だが彼女は答えず──ただ涙を流していた。
「すいません、私……」
 何も答えない俺の前で、必死に涙を拭おうと目をこするが、それはとめどなく溢れ続け、手の動きは意味を為しそうにもなかった。
「私……寂しくて……心細くて……だから……」
 何度もしゃくりあげながら、里美は泣いた。
「おい……」
 俺はたまらず声をかけた。
「──お前は一体誰なんだ?」
 目の前の無粋な来訪者に対して。
 ぴたり、と嗚咽と上下する肩の動きが止まる。代わりに数秒後吐き出されたのは、ため息だった。
「……やっぱりばれちまってたのかい」
 打って変わって獰猛で冷たい口調で『里美』は言った。変装していたのだ。
「色仕掛けも兼ねてたんだが……無意味だったね」
「物騒な殺気放ちながらカラダ求めてくる馬鹿がどこにいる」
 俺はカチリとライターをつけ、タバコを吸い始めた。ふぅ、と吐き出した煙が部屋の空気に溶け、思い切り身体に悪そうなニコチンの臭いが、あっという間に狭い部屋に部屋に充満する。
「それにどんな魅力的な女性が現れても関係ない。俺は月夜以外の女は抱かないんでね」
「……ロリコンが」
「否定しないがね。というよりできないか」
 履き捨てるように紡がれた罵声に、俺はあくまで冷静に対応した。
「……で、何の用なんだ結局──ああそうだ、ところで洋平って知ってるか?」
「誰だいそりゃ」
 不機嫌に『里美』は返した。
「あたしは二ヶ月前あんたに壊滅させられたグループの生き残りだよ。早い話が復讐に来た。あんたの首を墓前に添えてやんないと、アイツらも逝けないだろうからね」
 氷点下の、しかし溢れ出さんばかりの怒りを孕ませた声音。俺はそれに気を留めることもなく、記憶の層を掘り返していた。
「ああ……そういやそんなこともあったっけな」
 ようやく思い出した。
「道理で、頭数が足りないと思ってたんだよな……一人逃げてたってわけか」
「そうさ」
 自分の額にそれが向いた。どこに持っていたのかは知らないが、『里美』の手の中には、二三口径の銃が握られていた。
「自分の詰めの甘さを悔やむんだね。そして死んであの世で仲間に詫びてきな」
 撃鉄を起こす音が聞こえた。
「冥土の土産に名前くらい教えといてやるよ。あたしの名は」
 ぱすっ。
 軽い音。
 続けて二回同じ音。
「……使い古された前口上を述べるのは結構だが……」
 どさりと崩れ落ちる『里美』を見ながら、俺は言った。
「この土地じゃ利口な判断とは言えないな」
 枕の下に忍ばせてあったサイレンサーを装備した銃を放り投げ、俺はベッドから立った。
「って昼間も言ったっけな」
 ゆったりとした動きで『里美』に近寄り、額に三つの穴を空け動かない彼女を抱きかかえ──それを窓まで歩き、その外に放り投げた。
 ──どちゃり。
 この部屋は二〇階にある。地面との激突音がするまでに、少し間が空いた。
 その音を確認した俺は、窓を閉め、もう一度ベッドに寝転んだ。

 

 次に目覚めたときは、身体が重かった。何かが腹の上に乗っているらしい。
 瞼を開けば、そこには一糸纏わぬ身体を月光に晒している月夜がいた。時間を確認すると、既に九時を過ぎていた。
「帰ってきてたのか……。里美はもう寝たのか?」
 こくり。
「そうか……」
 俺は月夜の頭に手を回し、引き倒した。胸にかかる人一人分の重み。
 自分が生きていることを実感するための行為の一つ。それが、これだった。
 雪よりも真っ白な髪を撫で、俺は月夜の身体を貪り始めた。

 

 毎夜毎夜行なわれるそれを終え、俺と月夜は並んでベッドに横になった。
 煙草の煙の流れ行く先を目で追う。この煙を作る粒子達は、自分達がどこから生まれ、どこに行くかなど考えもしないのだろう。ただそこにあるというだけで。
 それは自分も同じか、と自嘲気味に思う。
 未来など考えたこともない。ついでに言えば、考える必要もない。今ここに自分があるだけで充分。そう思っているから。
 所詮考えても未来のことなど誰にも分からないんだ。なら、最初から考えなければいい。それが俺が弾きだした、極めて簡潔な結論だった。
 だからとりあえず今だけを生きている。それだけのことだ。
 ふと、視線を横に流し、月夜を見る。
 月夜は目を閉じられることなく、俺を見つめ続けていた。まったく微動だにせず、顔だけを横に向けて、光を灯しているのかさえ分からない紅い瞳で見る様は、まるきり死人だった。
 こいつのこの視線を昔から変わらない。出会ったときからまったく変わらない。ひたすらに無表情な──無そのものな瞳の色で自分を見ている。俺はこいつが何かの感情を浮かべたとこを見たことがない。嬉しさも哀しさも憎しみも何も。
 そしてこいつは、俺が眠るまで決して眠ろうとはしない。だから俺はこいつの寝顔を知らない。一度も見せてはくれない。真夜中俺が起きるときも、不思議なことに何故かこいつは必ず起きている。
 俺は月夜から天井へ視線を戻し、煙草を口から取ってそのまま火を指先で握り潰した。完全に熱を失ったそれをゴミ箱の方向に放り投げ、俺は目を閉じた。

 

 目を開けると朝だった。
 相変わらず夢を見ることのない睡眠を終え、俺はベッドから起き上がった。隣に月夜の姿はなく、代わりに台所から香ばしい匂いが流れてきていた。
 時計の針は九時を指している。俺はあくびを噛み殺しつつ部屋を出た。テーブルには、三人分の朝食が並べられていた。
「あ、おはようございます」
 にこりと微笑みを投げかけ、里美。
「ああ、おはよう……」
 頭を掻きながら答え、椅子に座る。盛り付け方は、昨日までと違い──里美がいるせいだろうか──俺の器にも均等に盛られていた。箸を取り、まずは味噌汁を啜った。
 りりりりん、と、丁度俺が目玉焼きにかぶりつこうとした瞬間に電話が鳴った。まったく、朝っぱらから迷惑だな。
「はいもしもーし」
『──わしじゃ』
 しわがれた声が聞こえた。爺さんの声だ。
『あの子の兄を殺したヤツらが分かったぞ。それと……』
 言うのを躊躇うように爺さんは言葉を区切った。
「それと、何だって?」
『いや、何でもない。行けば分かることじゃからな。気にせんどいてくれ』
「……分かった」
 どこか沈んだ感情を含ませた声に、俺はそう応じるしかなかった。
『店に来てくれ。詳しい説明はそこでする』
「了解」
 答え、電話を切る。
「誰ですか?」
 問い掛けてきた里美に、俺はふぅ、と溜息を吐き、
「……あんたの兄貴を殺したヤツらが分かったそうだ」
 がたん、と椅子を倒して里美が立ち上がった。顔には緊迫した表情が浮かんでいる。
「座ってろ。慌てたって仕方ないだろうが」
 宥めるように俺は手をぱたぱたと振った。自分自身も椅子に座り、食べかけの朝食に再び手をつける。
「とりあえずメシ食ってからだ。食わないと身体が動かんぞ」
「……はい」
 ようやくそう答えた里美の声は、深く、暗く、そして静かな覚悟を含んでいた。

 

「よぅ、久し振りだね『死に損ない』」
 入ってくるなり聞こえたのは、高い女性の声だった。
「……遼子か」
 俺が名を呼ぶと、髪を金髪に染めた長身の女性──遼子は歯を見せて笑った。
 短く切りそろえた髪と切れ長の目が、どことなく肉食獣を思わせる。豹か虎。そんな感じだ。
「まぁた金になるかどうかも分からない仕事引き受けちゃって。そんなんだから日々の生活も苦しいのよ?」
「余計なお世話だ。俺はお前と違ってあんまり金を使わないからな」
 俺がそう言うと、何がおかしいのか、遼子はまた笑みを見せた。まるで動物にちょっと悪戯し、その反応を楽しむ、無邪気な子供のような笑みだ。
「ま、あたしはあたしの仕事をこなしただけだからね」
 そう言って手の中の紙をひらひらと振った。
「そういや爺さんは?」
「部屋だよ。自分の口からは伝えたくないんだってさ」
 遼子は肩をすくめた。
「あの……どちら様でしょうか」
 背中から遠慮がちに響く声。当然、里美だ。
「ああ、あんたが今回の依頼人かい?」
 里美は「はい」と頷いた。
「ふぅん……」
 値踏みするような視線。だがそれは、里美の素性を探るようなものではなく──むしろ食べ物を見てどんな味がするのかと想像しながらのそれに近い。
「中々美味しそうだわね」
 幸いなことに、呟きは里美の耳に届くことはなかった。
 早い話遼子はレズビアンだった。ついでに言えばサディストらしい。その辺りは実際に見たことがないので分からないが。……無論、見たいとも思わない。
「……余計な妄想に胸を膨らますのも構わないけどな」
 いい加減遼子の鑑定を止めさせようと、俺は声を発した。
「さっさと場所を教えてくれないか? こっちも暇じゃないんでね」
「わかってるわよぅ」
 妄想を止められて不満だったのか、口を尖らせて、遼子。
「ま、とりあえずこれ見て」
 遼子は手に握っていた紙を差し出した。それは何かの建物の地図だった。
「あんたの兄さんの足取り辿っていって、行き着いた先がその場所だったのよ。見た感じその辺りにいくらでもありそうなビルなんだけどね、問題はその地下よ」
 地図の『B1F』と記された図を指差す。
「この階だけはまだ機能してるらしくてね。ここでクスリが作られてるっぽいわ。それ以上のことはあんまり分かんなかったけど、結構大きな組織らしいわね。さりげなく見張りとか置いてるし」
 ふむ、と考えるように吐息する。地図をポケットに入れ、俺は身を反転させた。
「礼を言うぞ、遼子」
「なに、仕事だからね」
 振り返った視線の先でにっと笑顔を見せながら、遼子は言った。

 

  その場所は、地震以前は製薬会社として機能していたらしい。なるほど、クスリの取り扱いにはうってつけの場所ってことだな。
 離れた場所から観察してみると、確かに遼子の言った通り監視役の人間がいるようだった。
 現在午後四時半。入り口の所に二人。浮浪者の格好をして離れて座っているが、その目は常に警戒の色を宿らせている。間違いなく玄人の目つきだ。
「……ふむ」
 白い息を吐き、俺はライフルを構えた。スコープの向こうには男が一人。俺は十字の中心と男の眉間を重ね──引き金を引いた。
 たん、という、サイレンサーによって抑えられた銃声と、腕と肩に戻ってくる反動。約一二〇メートル先では、男の頭が爆砕していた。
 空薬莢を排出し、新たな弾丸を込める。もう一度覗いたスコープの先では、先の男の相方が死体に駆け寄っていた。
 たん
 今度はその男の頭が破裂する。
「……よし」
 俺はささやかな満足感と共に吐息し、ライフルを背負って立ち上がった。
「他に監視役はいないようだな……」
 死体の周囲で何の動きも見られないことを確認すると、俺は振り返った。
「準備はいいな?」
「はい」
 里美の返事と、月夜の頷き。
「それじゃあ、突入開始だ」

 

「なんだてめ」
 ぱすっ
 台詞を永遠に中断させ、額に穴を空けた男は倒れた。
 遼子の地図に書かれてあった地下への階段を下り、俺達はその奥へ進んでいた。
 相手が何人いるかは分からないが……倒せない数ではないだろう。
 男の死体を通り過ぎ、少し歩くと曲がり角に辿り着いた。向こう側から聞こえてくる足音は三人分。どうやら雑談で盛り上がっているらしい。俺は躊躇せずに、その角を曲がった。
「あー……」
 俺の発した一言に素早く反応し、一人が唐突に銃を撃った。俺が発した言葉は、昨日の三馬鹿に対して放ったものと同じだったが、こいつらの動きはまったく違う。見慣れない人間即ち敵。中々優れた判断だ。
 反射的な行動だったせいか、弾丸の軌道は逸れ俺の頭の横を通り過ぎた。俺は銃を抜くなり即撃った。弾丸は三人のうち一人の右目に潜り込み、そのまま頭の中身を突き進んで小脳を破壊した。貫通はしなかったようだ。
 他の二人は倒れ行く仲間には目もくれず、銃を連射した。俺は自分の腕や足にそれが命中しまくるのにも構わずもう一発。単純な引き算の結果、残りはあと一人となった。それでも逃げようとせず俺を撃ってくる根性は賞賛に値する。しかしやはり恐怖は感じているようで、険しい表情はそれを覆い隠すための虚勢だと見てとれた。
 ちらりと後ろを向いて、月夜と里美が顔を出していないことを確認する。
 軽く三回、引き金を引く。男は両足大腿と銃を持っていた右手の甲を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。
「こんにちは宅配便です。あなたの雇い主はご在宅でしょうか?」
 襟首を掴んで引き上げる。間近には虚勢を張ることも忘れ恐怖に染め上げられた男の顔があった。
「はっ、ヒッ、助け……」
「あーそーだろーな痛いだろーな。だったら、さっさと雇い主の場所を教えてくれ」
「こ……ここ……」
 男は唯一動く左手で、通路の奥を指差した。
「真っ直ぐ行ってっ、つ、突き当りを右に曲がって……それから左側の二番目の通路を曲がって……『薬品試験室』って書かれてる、部屋っにっ……」
 てんで呂律が回らない口調で、男は何とか説明した。
「ああそうか。恩に着る」
 そう言って俺はこめかみに突きつけてあった引き金を引いた。反対側から弾丸が飛び出、男は助かると思っていたのか歪んだ安堵の笑みを浮かべたまま逝った。
「先を急ぐぞ」
 既に角から姿を現していた月夜と里美に呼びかけ、俺は歩き出した。
「……容赦しないんですね」
「怖いか?」
 横に並んで言った里美に、俺は問うた。里美は首を左右に動かし、
「怖くはありません。ただ……」
 一瞬言いよどんで、
「命を捨ててるような戦い方をするんですね」
「…………そうだな」
 少し長い沈黙の後、俺はそれだけ返した。
 銃で撃たれ、身体中に空いたはずの無数の穴は、まったく痛まなかった。

 

 これで何度目になるのか。俺達は再び敵に出くわしていた。数は八人。今までは三人、多くて五人のグループばかりだったが、今回は少し多い。それだけ中心部に近づいているということなのか。
 斜め前に向かって二発。一人倒れる。間髪入れず俺の腋下を縫って突き進む弾丸が別の男の腹に穴を穿ち、思わず屈んだそいつの頭をブチ抜いてとどめをさしてやった
 月夜と里美の二人には、曲がり角の陰に隠れて援護してもらっている。月夜はともかく里美は正直役立たずだと思っていたが……中々どうしていい腕を持っている。おそらく仇を討つために必死で腕を磨いたのだろう。
「頼りにしてるぜ」
 聞こえたかどうかはともかく俺はそう呟くと、続け様に四発撃った。崩れ落ちる二人には目もくれず、俺は素早く残り一発になった弾倉を満タンの物と取り替える。
「退けっ!」
 怒号が響き、今にも銃を放たんとしていた俺の前に、男の一人がそれを携えて立ちふさがった。それは……まぁ、つまり、マシンガンとか呼ばれるものだった。
 俺は思わず呻いた。まずい。あんなもんで撃たれたら──
 タタタタタタタタタタタタタタタ──ッ!!
 タップダンスにも似た軽い連続音が、オレンジ色のマズルファイアと共に吐き出された。
 無数の弾丸が、俺の身体に突き刺さり、突き抜ける。腕を、肩を、腿を、脚を、腹を胸を、そして頭さえも。俺は絶え間なく襲いくる銃弾の嵐に為す術もなく、銃撃に合わせて踊っていた──

 

 ──やがて銃声が止まった。
 晴れた硝煙の向こうに男達が見たのは、無数の穴が穿たれた壁や床と──その床の上に転がる一つの身体。
「やったか……?」
 男達の声に、少なからず歓喜が混じる。
「そ……んな……」
 角の向こう側で、里美ががくりと膝をついた。月夜だけは──この場に居合わせた人間の中で月夜だけは、皮膚を一ミリたりとも動かすことなく、相変わらず静かに佇み、見ていた。
「やったぜ! こん畜生、化け物がっ!」
 歓声の中に罵声を交え、男達は小躍りした。結局、こいつらは馬鹿だということか。
「──やっぱ少しは痛いな……」
 そう言って俺は身を起こした。歓声が唐突に止む。遠近感に乏しい視界。どうやら片目を潰されているらしい。
 そう。
 俺は死んでなどいない。
「ひっ……」
 男の一人が慄き、一歩後ずさった。
 男達から見れば、俺はさぞかし異様に見えたことだろう。何せ身体のいたる所に穴を空け、それでも地面に立っているのだから。
 ずぶずぶと自分の中を何かが蠢く感覚。
「あ……あぁっ……」
 声にならない声。
 俺の足元で、からんからんと何度も音が弾けた。
 床に落ちたそれは、俺に撃ち込まれた弾丸。
「まったく……このコート高いんだからな」
 弾丸を抜き取られてようやくはっきりした視界で、穴だらけになったコートを見下ろす。……帰ったら即廃棄処分だな、これは。
「何で……ッ」
 男の声。どうやら少しは恐怖が和らいだらしく──それでも大分震えていたが──、ようやく元の口調に戻りつつあった。
「何で死なねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
 突進。手には、肉厚のナイフが握られていた。
 胴に激しい衝撃。俺はあっさりと吹き飛ばされ、硬い床に叩きつけられた。後頭部にハンマーで殴られたような衝撃が伝わる。
 男は素早く俺の首にナイフの刃を押し付け──そのまま全体重をかけた。ゴトン、と首を通り抜けたナイフが床に当たる音を聞くと同時に、俺の視界はぐらりと揺れ、横に倒れた。しかしそれも一瞬のことで、すぐまた世界が回転しまくり、気づけば猛スピードで白い壁面が迫っていた。
 ごづっ、と頭蓋が壁に当たって砕け、後は自由落下に任せて俺の頭は床に落ちた。どうやら首を切り落とされた挙句、振り回されて投げられたらしい。
「へっ……へへっ……さすがにこれなら……」
 俺の身体の上の男は、乾いた笑い声を漏らしていた。いい加減重い。どいてくれと言いたいのだが……喉から断ち切られているので声は出せなかった。仕方がないので実力行使に移る。俺はまだ銃を握り締めていた右手を持ち上げる。
「え──」
 ぱすっ ぱすぱすぱすぱすっ
 銃声。
 俺の顔は壁に向けられていたので、身体の上に乗っている男が見えなかった。無駄玉は使いたくなかったのだが──仕方なく俺は男の頭があるであろう方向に向かって銃を連射した。
 身体の上で動かした左手は巨大な物体に突き当たった。少し力を込めると、それはぐらりと傾き、そのまま床に倒れ臥した。
 俺は首から下の胴体を起き上がらせた。俺の頭が投げられた方向に手を突き出して身体を歩かせ、手が壁に触れたところで屈ませる。
 手探りで自分の頭を探す。この感覚はやはり慣れない。自分の身体を遠隔操作しているようなものだ。
 と、指先が何か硬いものに触れた。俺の頭にも、何かが触れた感触があった。
 俺の身体はそれを──俺の頭を拾い上げた。一瞬垣間見えた首の切断面は生々しく──しかし一滴の血も流してはいない。完全に死んだ人間を輪切りにすればこんな光景が望めるのだろうか、と一人考えてみる。頭をあるべき場所に乗せ、二、三度横に回した。何かが綺麗にはまったような手応えを感じ、そこで動きを止めた。
 頭と首とが接合されていく感覚。一度は断絶された肉と神経と骨が糸を伸ばし、再び俺の身体はあるべき状態に戻った。無論、砕けた頭蓋骨もすっかり元通りだ。
「ふぅ……」
 喉もちゃんと繋がっているのか確かめるように、俺は息と同時に言葉を発した。異常はないようだ。
「さてと……」
 コキコキと首を二、三回鳴らし、俺は男達に向き直った。
「うっ……」
 男達は恐怖を隠そうともせず──というより隠すこともできず、その場に立ち尽くしていた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 残っていた三人の内、ようやく一人が弾かれたように逃げ出した。それがきっかけとなり、他の二人も恐慌状態に陥りながらも必死に後を追った。無論、意味はないが。
 人数分の銃声が響き、同じく人数分、倒れる音がした。
「ふぅ……」
 疲れを吐き出すように息を吐き、俺は空になった銃の弾倉を抜き、投げ捨てた。
「あ……あの……」
 新しい弾倉を差し込んだ俺に、躊躇いがちに里美が話し掛けてきた。
「あの……何なんですか?」
 要領を得ない問いかけ。彼女自身も、どう問い掛ければいいのか分からないといった様子だった。
「何なんだろうな」
 俺はそう答えた。というより俺自身も、それ以外の答えは持ち合わせていなかった。
「分かってるのは、俺が絶対に死なない──死ねないってことだけでね。俺が一体どこで、誰から生まれ──或いは作られ──たのか、名前は何なのか、それさえも分からないんだよ。本当に」
 肩を竦め、言う。
 俺の記憶は五年から昔の記憶がない。いつの間にか自分はあの部屋にいた。
 とりあえず俺はハンガーにかけてあった服を着て──幸いにも人間として必要最低限度の知識は持っていた──街に出た。適当にぶらぶら歩いていると、誰だか分からない人間に刺された。しかし痛みはなかった。刺されたナイフを引き抜くと、あっという間に傷はふさがり、完全に消え失せていた。記憶がなかったせいか、俺はごく自然にそれを受け入れることができた。そのうち爺さんと出会い、陽子や隆志と出会い、遼子と出会い──そして今に至る。それだけのことだ。
「あの……」
 もう一度、里美の声。
「あなたは──生きてるんですか?」
「……さてね」
 はぐらかすように答えた。
 生きているのか、死んでいるのか。それは俺自身も分からない。こうやって思考し、ここに自分が在るということを認識していることが『生きている』ということなら、自分は生きているのだろうし、何度傷つけても再生し、首を切られてもまだ動く身体を『死体と同じ』と定めるなら、俺は死んでいるのだろう。
 それが、俺が『死に損ない』と呼ばれる理由でもあった。
 死のうと思っても死ねない。絶対に。髪や爪が伸びるなどの『老化現象』は一応起きてはいるが……実際に俺に寿命があるのかどうかも分からない。
 食欲・性欲・睡眠欲を満たすことと、煙草を吸うことと──そして他者の命が奪われる瞬間に立ち合わせた時にだけ、俺は自分が『生きている』ことを実感できる。何とも、我ながら虚しい人生だ。
 ふぅ、と何度目になるのか、また溜息。その溜息が何に対してのものなのかは、俺にも判断できなかった。里美の質問に対してか、戦ったことによる純粋な疲労からか──自分の虚しい人生に疲れてか。
「……ま、俺についてはどうでもいいだろ」
 俺はそこで終わり、とばかりに話を打ち切った。
「あんたは俺の依頼人。俺はあんたの依頼をこなすだけ。それだけの関係だ」
 確認するように言うと、彼女は小さく頷き、
「……すいません」
 謝った。
「別に謝んなくてもいいさ。何かを知りたいと思うのは人の性だ」
 気楽な口調で言って、俺は改めて前方を見据えた。
「さて……そろそろ目的地に到着のようだな」
 俺の視線の先には、『薬品試験室』と書かれたプレートがあった。

 

 キィ……と軽く軋んで、銀色のドアは開かれた。
 薬品特有の甘ったるく、しかし酸っぱい匂いが鼻腔を刺激する。
「誰だい?」
 先客は振り向きもせず、問い掛けてきた。ずっと前からここで何かの作業をしていたらしい。白衣を着たその人物は、せわしなく別の薬品棚から薬品棚へと移動していた。そのとき見えた横顔は、三〇代後半の男のものだった。頬が痩せこけ、医師や薬剤師というよりもそれにかかる病人の顔だった。
「この部屋に尋ねてくるのはこの研究所の護衛役か、それとも僕を殺しにきた人間の二種に分かれると思うんだが……君達はどっちなのかな?」
「後者だ」
 俺は簡潔に答えた。しかし男は自分の死の瀬戸際だというのに感情一つ揺れ動かさない声で、まったく興味なさ気に言う。
「ふぅん。それで、僕が殺される理由は一体何なのかな。せめてそれくらいは知りたいものだけど」
「──あなたはここで何をしているのですか?」
 唐突に、里美が割り込んできた。
「見ての通りさ。ドラッグを作っているんだよ。上からの命令でね」
 男は答え、試験管の中の液体に何か粉末状の薬品を加えた。すると見る見るうちに透明だったそれが紫色に変じる。それを確認して、男はバインダーに挟んだレポート用紙に何か書き込んでいった。
「それなら……私の兄さんを殺したのも、あなたなんですね……」
 今にも弾け飛びそうな怒気を必死に押さえ込み、里美は静かに言った。但し握られている銃の銃口は、真っ直ぐ男の後頭部に向けられていた。
「……その君の兄の名前は?」
「洋平です。高倉洋平」
「タカクラ……ああ彼か。思い出したよ。二ヶ月くらい前まで売人をやってた彼だね」
「──え?」
 里美の思考が完全に凍結した。男の言った言葉が理解できなかったのだろう。
 男は顔だけを半分振り向かせ、銃口を向けたまま呆然としている里美を一瞥した。
「なるほど、確かにタカクラそっくりだね」
 頭の向きを戻し、また何やらレポート用紙に書き込んでいく。
「どういう……」
 里美が掠れた声を絞り出した。
「どういう……ことですか?」
 俺は電話口で爺さんが言いよどんでいた理由がようやく分かった。おそらく遼子も知っていたのだろう。洋平がここで何をやっていたのかを。
「だから、洋介は僕達の組織の売人だったってこと。ところが二ヶ月前突然行方不明になってね、見つけたときは時既に遅し、自分自身に売り物のクスリ射っちゃってもう助かりようがなかったからね。そのまま放置されたらしいけど……。そうか、死んだんだ。結構良く働いてくれてたんだけどなぁ」
 心底残念、といった様子で男は喋った。
 里美の肩はがくがくと震えていた。今まで自分を支えてきたものが音を立てて崩れていっていることだろう。
 出稼ぎに行って、何者かによってクスリで壊されたと思っていた兄は、その実、彼自身がクスリの売人であり、彼は自らにそれを射った挙句死んだ。つまりはそういうことだ。
 兄の命を奪った存在は、同時にその兄の手を渡って数多くの命を蝕んでいった。洋平は被害者ではなく、加害者側の人間だった。
 優しかった自分の兄が、人を傷つけることを何より嫌っていた兄が、簡単に、極めて簡単に、他人の命を奪っていた。その事実だけで、里美の心を崩壊寸前に追い込むのには充分だった。
「嘘……」
 現実を認めたくないのだろう。彼女は、そう呟いていた。
「嘘よ。そんなの……兄さんが……嘘よぉ……!」
「残念ながら現実だよ」
 しかし男は、静かに、そして冷たく、彼女の心を壊すための最後の一撃を加えようとしていた。
「君の兄さんはクスリの売人をやってお金を稼いで、挙句自分にクスリを使って死んだ。嘘なんかじゃない。変えようのない現実だよ」
「嘘ッ、嘘ッ、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 里美は喉も裂けんと絶叫しながら、強く握り締めていた銃の引き金を引いた。何度も何度も。
 最初の弾丸は寸分違わず男の後頭部の中心に穴を空けた。続いて二つ、三つ、四つと穴が増えていく。
 絶叫は止まらない。少女の哀しみと絶望は、いくらそれと共に吐き出そうとしても、決して吐き出しきれないほどに、深く暗く重かった。

 

 里美は床に座り込んでいた、虚ろな瞳で、名も知らぬ男から流れ出した血に染まった床を見ている。
「私は……どうしたらいいんでしょう」
 それは答えを求めての言葉というより、独り言に近かったのだろう。
「私は兄さんを……一番大切だったものを失ってしまいました。もう私には、何も残ってません。私は……どうしたらいいんでしょう」
「そんなことは俺は知らん」
 だが俺は、あえて答えることにした。何故答えようとしたのかは分からない。あえて言うなら気まぐれだろうか。
「あんたは確かに一番大切なものを失ったんだろうな。自分が信じていたものが崩れ落ちたんだから。だが──だが、全部を失ったわけじゃない」
 自分らしくない、と思いながらも、俺は続けた。
「まだあんたは生きてる。悲嘆に暮れて自分で死ぬこともできる。だけど、哀しみを乗り越えて死なずに前に進むこともできる。あんたはまだ何かやれるんだよ。まだ生きてるんだから」
 俺と違って。生きてるのか死んでるのか分からない俺と違って。
「歩けよ。行けるとこまで歩いていって、そして最後に、本当に駄目になったときは死ねばいい。あんたの兄はもう死んだ。だけどあんたは生きてるんだ。生きてるんなら歩け。歩いて最後に死ね」
 俺はそこまで言って、何も喋らず座り込んで俯いたままの里美を見た。長い髪に隠れて表情は知れない。
 俺は踵を返し、歩き出した。
 生きている彼女をそこに置いて。

 

 いつもの帰路を歩いていく。黄昏時の太陽が、俺と月夜の影を長く映し出していた。
 仕事を終えた後には、達成感も満足感もない。ただ何も考えない空虚さが、いつもと同じように心の中を漂っているだけ。
 あの後爺さんのところに寄った俺は、事の顛末を全部話した。爺さんは深く溜息をつき、背中を向けて目頭を押さえていた。遼子は小さく憂いの込められた溜息を吐き、店を出た。おそらく、里美を探しに行ったのだろう。
 懐から煙草を取り出し、火をつける。思い切り吸い込んで吐き出した紫煙が、黄昏の空気を灰色に汚していった。
「おいっ!」
 唐突に響く、背後からの声。顔だけを振り向かせて見れば、昨日の三馬鹿が佇んでいた。
「昨日はよくも」
 やってくれたな、と向こうが言う前に、俺は問答無用で銃をブッ放した。弾倉が空になるまで撃ち続けた。
「帰れ」
 足元で跳ね回った銃弾に腰を抜かした青年達に、俺は背を向けたまま静かに言った。
 俺は動けないそいつらを尻目に、また歩き出した。

 

 マンションの近くに来たときに、無数の黒い点の集まりが見えた。カラスだ。ふと見ればそれは、マンションと別のビルとの間の暗がりに群がっていた。──昨夜俺があの女を投げ捨てた場所だった。
 一匹が俺に近づいてきて、近くの傾いた電柱に留まって『かぁ』と一回鳴いた。礼でも言っているのだろうか。
「かぁ」
 生憎俺はカラス語を理解できなかったが、とりあえずそう応答して、マンションの中に入った。

 

 夜の闇の中で、俺はベッドに寝転んでいた。
「あー……」
 意味もなく声を出してみる。本当に意味がない。無駄に地球の酸素を消費しただけだ。
 と。部屋の入り口に気配が生じた。この家には現在俺と月夜しかいないので、いるのは無論月夜ということになる。
 目を向ければ、やはりそこには、毎晩のごとく裸の月夜がいた。
「あぁ……今日はパスだ。やめとく」
 ぱたぱたと手を振り、俺は言った。そしてそのまま目を閉じた。
 ──四〇秒くらい経っただろうか。突然、俺の頭が持ち上げられ、直後何か柔らかいものの上に乗せられた。重い瞼を開いてみると、そこには逆さまになった月夜の顔があった。
「何、やってんだよ」
 問い掛けるが、無論答えは返ってこない。──と思った。
「感謝しています。でも、恨んでもいます」
 それが月夜の声だと──三年振りに聞く月夜の声だということを理解するのに、俺は数秒を要した。
 水晶で作られた鈴のような、透き通った声。限りなく冷たく、遠く、しかしはっきりと耳朶を打つ、そんな声だった。
「ああ……」
 俺は右手を持ち上げ、月夜の髪をそっと撫でた。
「そうだったよな……俺が最初に聞いたお前の言葉は……それだったよな……」
 ──三年前。ある一人の女性が俺の依頼人になった。内容は至って簡単で、自分の夫を殺して欲しい、というものだった。
 彼女の夫は暇さえあれば自分とその娘に暴力を振るい、挙句自分の娘を犯したということだ。それでとうとうたまりかねて、彼女がここに来たらしい。
 俺は依頼を引き受けた。夜の八時になったら来てくれと言って帰った。
 俺は言われたとおり八時に指定された場所に言った。廃棄された、俺が住んでいるマンションからそれほど遠くない別のマンションの一室。そこが指定された場所だった。
 入って最初に感じたのは、途轍もない血の匂いだった。足を踏み入れると、リビングには頭を原型を留めないほどに打ち砕かれた依頼人の死体と、その中で狂ったように白い髪と赤い瞳の少女を犯し続ける男だった。
 俺はその男を殺した。依頼だったからだ。依頼人が死んでも、頼まれた仕事はこなす。それが俺の、一応の信条だった。
 依頼人のバッグの中から報酬を取り出し、引き上げようとしたときだった。自分のコートを誰かが引っ張っていた。見下ろしたその先にいたのは、白い髪に赤い瞳の少女だった。
 少女は言った。
「感謝しています。でも、恨んでもいます」
 それだけ、言った。後は何も言わなかった。名乗りさえしなかった。
 俺は踵を返し、帰ろうとした。すると少女はそれについてきた。俺が『俺を殺したいのか?』と訊くと、少女は頷いた。『俺と一緒に住むか? そうすれば殺しやすいだろ』というと、少女はまた頷いた。
 俺は少女の名前を決めてやることにした。彼女の本当の名前は今でも知らないが、とりあえず呼ぶ名がないと不便だと思ったから。
 綺麗な満月が出ていた冬の夜だった。
 だから、月夜と名づけた。
 そして三年経った今、少女は──月夜は、あの時と同じ台詞を言った。あの時と同じく、まったく感情の入っていない声音で。
 月夜の裸身が月光に晒されている。長く美しい白い髪は、月光を弾いて銀色に見えた。
 その月夜の姿は、正に女神そのものだった。しかしそれは、どこかが歪んだ、歪まされた女神だが。
『Lunatic Luna』──狂った月の女神。
 だが歪んでいるのは、狂っているのは彼女だけではない。この世界そのものが、歪み、狂っている。そして皆それをどこかで自覚している。
 そう、それは狂気。自覚のある醒めた狂気。
「なぁ月夜」
 俺は髪を優しく撫でながら、訊いた。
「お前は今でも、俺を殺したいか?」
 こくりと、迷わず月夜は頷いた。
「そうか……」
 俺もそれだけ返して、目を閉じた。
 頭を、月夜の小さな手が、優しく撫でてくれていた。
 月は今日も、銀色に輝いていた。

 

あとがき